書評1990s

1996.05.22

▽北京市長・陳希同「収賄疑獄」の全貌!――『宝島30』1996年3月号

 ジャーナリストの富坂聡が、日本からはうかがい知れない、中国内部の権力闘争の一面をレポートしている。

 95年4月、北京市長の陳希同が逮捕された。江沢民・中国共産党総書記のライバルと見られていた陳希同の逮捕は、中国内部の権力闘争の一部でもあった。

 事件の発端は、無錫市のある企業の不正経理であった。匿名の内部告発をきっかけに開始された調査は、やがて中国始まって以来の大疑獄事件へと発展した。こうした事件の一連の流れが、克明につづられている。

 では、なぜとう小平に次ぐ実力者と目されていた陳希同は、逮捕されたのか。そもそも、なぜ陳希同は、共産党総書記になれず、無名の江沢民が突如、総書記になったのか。

 著者は、その原因を天安門事件にあった、とみる。陳希同は、天安門広場の状況について大げさな報告をとう小平にしたために、とう小平の判断を誤らせた。

 天安門事件によって、とう小平のこれまでの功績はすべて消し去られ、「ひょっとすると、自分の死後、この間題のためにとうの政策のすべてが再評価の対象となり、否定される可能性が生じてしまった。おそらく、そのことで陳はとうの不興を買ったのだろう」。そして、そのことが陳希同の人生を大きく狂わせることになった。

 すでに中国では、ポストとう小平を巡り、さまざまな動きがあるという。江沢民は、陳希同との権力闘争に勝ったものの、これですべてを掌握した、というわけではない。

▽富坂聡『北京「中南海」某重大事件』講談社)

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▽日本経済 失敗の本質――『エコノミスト』1996年3月12日号




 『エコノミスト』誌の特集記事のなかでも、叙述の正確さで印象に残った論文が、手塚宏之氏の「経営者も教育ママもひたすら『ローリスク』を求めた日本」である。

 空母を中心とした機動部隊で制空権を押さえる「制空主兵」という独創的な戦術を編み出した日本が、大艦巨砲、艦隊決戦を踏襲し続けたのはなぜか。それは「水兵を失業させるわけにいかなかった」からだという。組織の連続性と雇用が、戦争の勝敗に優先していたためだという。

 組織内で成功したものをリーダーとする年功序列型の組織では、パラダイムシフトが起きても、従来のルールで消耗戦を続けてしまう傾向にある。

 「日本型経営システムは弱者淘汰という経営リスクを企業が相互にヘッジし合い、主要産業を長期に熾烈な競争環境に置くシステムであったが故に、全体として競争力のある経済を醸成できたのである」

 このシステムにおいては、皆と同じ判断をしている限り、企業も成長できる。年功序列に我慢する若者や、子供をよい大学に入れたがる教育ママたちも、日本的なシステムが生み出したのだ。しかし、日本ももはや従来の手法は通用しなくなった。

 日本には、大きなパラダイムシフトを、明治維新と敗戦とすでに二回経験している。ここでは、人材の解放と再配置が極めて効率的に行われた。現在の日本は、外圧によらず自らの意思で、これを行わなければならない時期に釆ている。


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▽『大合併 大逆転!』――第一銀行を軸とした合併をめぐる舞台裏

高杉良『大合併 大逆転!』(角川書店)



 新刊といっても、高杉良の作家生活二〇周年を記念して出版 された「高杉良経済小説全集」全一五巻のうちの第七巻。

 さて、東京三菱銀行の発足直前というタイミングを狙ったのか、第一回配本分は、第一銀行と日本勧業銀行の合併を取り上げた「大合併」と、第一銀行と三菱銀行の合併がご破算となった過程を描いた「大逆転!」の二つの小説を合本している。

 「大合併」のほうは前に掲載してあるが、むしろ「大逆転!」のほうから読んだほうが、流れが分かっていいかもしれない。

 「大逆転!」のほうは、三菱銀行との合併に反対した島村道康・元第一銀行常務を中心に描かれている。島村氏の日記なども引用されており、日本企業の中で一人トップに反旗を翻す信念の人といった風に描かれている。島村氏が極めてさわやかな人物として描かれており、その点、評価の分かれるところだ。

 この点を反省してか、一方の「大合併」は、どちらかと言えば客観的なスタンスをとるようにしている。ノンフィクションの作品として発表してもよいのに、と思われるほどよく取材がされている。

 さて、「大逆転!」を読んで思うのは、第一と三菱のご破算劇は常に第一の側から語られることが多かった。東京三菱の発足を前に、「三菱にとっての合併」についても語られる必要があるだろう。

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▽『ぽくのドイツ文学講義』――ドイツ文学の軽やかな入門書

池内紀『ぽくのドイツ文学講義』(岩波新書)



 池内紀・東京大学文学部教授が、自らの「ドイツ文学講義」を一冊の本にまとめたもの。一〇の講義に分けられた各章は、取り上げる作品の解説から時代背景まで、丁寧に説明しており、ドイツ文学にあまりなじみのない人でも楽しめるようになっている。ドイツ文学講義というよりも、近代ドイツの世情を解説したようなものとなっている。

 第二講は、最近ちくま文庫から森鴎外訳が出版された、ゲーテの『ファウスト』を取り上げている。ファウストは、悪魔メフィストフェレスと、ある賭けをした。ファウストが、「時よ、とどまれ、おまえはかくもすばらしい」と叫んだら、つまり、ある瞬間に「至福」を感じたら、そのときは命をとられても構わない、という賭けだ。

 『ファウスト』 の第一部は、メフィストの力で若返ったファウストが、町娘に恋をする。しかし、「時よとまれ」とは叫ばない。では、第二部はどうか。

 多くの解説書が、第二部テーマを「魂の救済」としているが、著者はこの見方を退ける。著者の解釈はこうだ。第二部は、実は錬金術師ファウストを描いたものだ。そして、広大な沼地を前にファウストは、「時よとまれ」と叫んでしまう。

「愛の人が、広大な土地を前にして野心をたぎらせるエコノミストとして生涯を終えた。つまり、そのようにして、メフィストは賭けにかった」。

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1996.04.22

▽『僕はこんな本を読んできた』



立花隆『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』(文春文庫)



 立花隆が過去に行った、講演録やインタビューや書評をまとめただけの、お手軽な作りの本。文芸春秋の作りにしては、ちょっと雑。

 立花隆氏の読書遍歴は、学生時代までは文学、文芸春秋退社後は哲学、ふたたびジャーナリズムの現場に戻ってからはノンフィクションや科学の専門書、というふうに分けられる。

 立花氏は、インタビューの中で、文学の与えた影響について興味深い発言をしている。「文学を読むことで得られる大事なことは、それによってつちかわれるイマジネーションですね。取材が駄目な人間というのは、結局イマジネーションがないからなんだね」。

 また、文芸春秋を退社したときの「退社の弁」も紹介されている。

 「ジャーナリズムの世界において僕が感じたのは、思惟とのフィードバックがない観察はなにものでもないだろうということだった。あまりにも多くのものを見すぎることは、もしそれが充分に考えることによって裏打ちされないならば、返って有害であるかもしれないのではないか……」

 本を読みたい、という理由で文芸春秋を退社した立花氏は、ふたたびジャーナリズムの現場に戻ってくる。その理由は、小説よりも面白いノンフィクションを数多く読んだから、という。しかし、このあたりの心情的な変節が今一つ、よく分からない。その意味でも、本書の出来はよくない、といえるだろう。


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▽『経世会死闘の七〇日』――面白すぎる権力闘争のドラマ

大家清二『経世会死闘の七〇日』(講談社)



 住専問題の進展次第では、国会は解散・総選挙という事態に至っているかもしれない。この政局混迷の原因は、小沢一郎と橋本龍太郎のいわゆる「一龍戦争」があり、その底流には92年秋の経世会分裂があった。

 本書は、経世会分裂過程の七〇日間を、現役の政治部記者が、克明に綴ったものである。ペンネームを使っての執筆、情報ソースを明かさないでの描写といった様々な制約があるものの、本書に書かれている事のほとんどは事実である、とみていいだろう。「一龍の確執」部分も含め、最近のテレビ番組や週刊誌などが流用している箇所も数多くあり、現在の政治状況を理解するうえでは必読の書といえる。

 本書に綴られているのは、理念のかけらもない、純粋な権力闘争のドラマのみであり、本書を読んで「国民不在の政治」といった紋切型の批判を投げ掛けることもできるだろう。しかし、そうした安直な批判を受け付けないほどの面白さを本書は持っている。

 単なる、「サル山のボス争い」がなにゆえに、これほどまでに面白く感じるのか。それが、人間の持つ本性の一部に他ならないからだ。

 ただひとつ、我々が考えなければならないことは、政治の側が、こうした無意味な権力闘争に明け暮れていながらも、日本という国がとりあえずは大きな破綻をきたさずにいるのはなぜだろうか、ということだろう。

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1996.02.22

▽『「超」勉強法』――”ちょう”しにのって、第三弾



野口悠紀雄『「超」勉強法』(講談社)



 野口悠紀雄「超」先生が、サラリーマン魂を刺激する本をまたしても上梓した。超整理、同・時間編に続く、「超」シリーズ第三弾。題して『「超」勉強法』。

 本書では、例によって勉強の三原則を提示しているが、
・面白いことを勉強する
・全体から理解する
・八割原則
 と、言われてみればなるほどというものばかり。

この三原則をもとに、英語、国語、数学の三科目の勉強法について述べていく。具体的なノウハウは、本書をお読みいただければよいし、その勉強法を採用するもしないも、読者が判断すればよいことだろう。

 ただし、本書の提唱するに勉強法は、現在の受験勉強に対するアンチテーゼの面をもっており、要するに受験勉強に対する速効性は無い。また、「優秀な生徒にしか真似できない」という指摘もある。したがって、本書を受験生に進めるのは、避けたほうがよいだろう。

 また、第五章「超」暗記法の箇所は、何だかよく分からない。英語の章で単語や熟語をこじつけで覚えることを、「絶対にやってはならない」と批判しながらも、暗記法の部分では、さまざまなことを関連づけて覚えよう、と提唱している。しかし、たとえば「三菱商事に勤める、眼鏡をかけた石井さん」というのを、「ダイヤモンドーガラスー石」と関連づけるのは、ちょっと無理があるんじゃないでしょうか。


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▽『新宿鮫 炎蛹』――過剰なフィクションに支えられた理想の人物像



大沢在昌『新宿鮫? 炎蛹』(カッパ・ノベルス)



 早いもので『新宿鮫』シリーズも第四弾。

 本書の人気は、主人公である新宿署の刑事・鮫島のキャラクターに負うところが大きい。正義感に燃えるタフな刑事、という設定はハードボイルドの定番でもある。

 こうしたキャラクター設定は、脇役にも踏襲されている。連続放火犯を追う消防署員、防疫検査をすり抜けて日本に持ち込まれた「炎蛹」を追い掛ける防疫検査官。彼らはみな、職業意識に燃える公務員である。

 しかし、こうした理想的な人物像をストレートに描いても、単なるエエカッコシイの物語で終わってしまう危険性はある。作者は、物語に過剰なフィクションを設定することで、この点を回避することに成功している。

 本書のサブタイトルにつけられている「炎蛹」も作者の創作によるものだ。南米から持ち込まれた、この蛾の蛹が羽化して繁殖を繰り返せば、日本の水田は壊滅的な打撃を受けることになる。カタストロフを前にすれば、どんな臭いセリフも肯定せざるをえない……。

 などと考えていたら、「炎蛹」の設定に似たニュースが飛び込んできた。日本にいないはずのセアカダケグモ。すでに何度も繁殖を繰り返しており、毒グモの大量発生となりかねない。

 ならば、いっそのこと鮫島刑事も飛び出して、悪い奴らをみんな逮捕してくれればさぞかし胸がすっとするだろうに。


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▽『日本の予算を読む』――大蔵権力の源泉、予算編成の舞台裏



新藤宗幸『日本の予算を読む』(ちくま新書)



 大蔵省解体論がかまびすしい昨今だが、その権力の源泉は予算の編成権にある、といわれている。本書は、日本の予算の仕組みを描くことに主眼が置かれているが、その内容は単なる教科書的なものではない。

 「予算が、歳入と歳出に加えた政府金融の複雑かつ怪奇とすらいえる、政治と技術の交錯であることを基本として、予算の実像に迫ってみようとするものである」

 編成から実行まで足掛け四年にわたる予算は、外部から伺い知れないほど複雑なものとなっている。ブラックボックス化することが、大蔵省の戦略であった、といえるだろう。

 最近、住専問題で取り沙汰されている、「政府保証」についても記述がある。

 「内閣は国会の承認を受けた範囲内で、債務契約を民間と結ぶことができる(財政法第一五条)。これを債務負担行為というが、契約期間は最長五カ年である。そして将来、現金支出が必要とされる時は、その年度の歳出予算に支出額を計上して、国会の議決を受けなければならない」

 つまり、住専処理に際して政府保証を行う場合は、特別の立法措置が無いかぎり、国会の承認を二回受ける必要があることになる。すでに、95年度予算は税収不足に陥っており、さらなる増税が予想される。日本人の納税者意識が強まるほど、ごまかしがきかなくなるはずだ。


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▽大蔵官僚の病気――『別冊宝島』24



『大蔵官僚の病気』(『別冊宝島』244)



 94年12月に発行された 『大蔵官僚の正体』に続く、大蔵官僚ネタの第二弾。この一年の間に、大蔵官僚のさまざまなスキャンダルが明るみになったり、金融機関の破綻や大和銀行問題といった事件が続き、大蔵省および大蔵官僚は、絶好の叩きネタに成長してしまった感がある。

 本書の内容も前回のものと比べると、かなり過激になっている。この号の中では、大蔵省とマスコミとの関係を描いた「審議会にマスコミをとりこむ大蔵省のすご腕」が興味深い。

 例えば、大手マスコミの関係者(論説委員、解説委員クラス)も審議会の委員にして反論できなくする。大蔵省内の記者クラブ「財政研究会」所属記者のエリート意識をくすぐって仲間意識を醸成する。大蔵省のことを悪く書かない記者にだけリークが与えられる。大蔵省に批判的な記者にはわざと特オチさせる。

 というようなことは、これまでにもしばしば指摘されている。しかし、こういったワザを使っても、コントロールできない部分がある。そこで出てくるのが国税庁である。国税庁には調査第三部第三十九部門というマスコミの税務調査を専門に担当するセクションがある、という。

 いざとなればこのセクションが動き出し、徹底的なあら探しを行うことができるのだ。新聞社が脱税していたとなれば社会的な信用は失墜する。ゆえに逆らえなくなっていく。

 こうした税金絡みの圧力は、新聞社だけでなく出版社やフリーライターにも及ぶという。

 やれやれ……。  


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▽『退き際の研究』



内橋克人『退き際の研究』(日本経済新聞社)



 本書は、経済ジャーナリストの内橋克人氏が、88年から89年にかけて『日経ビジネス』誌に連載したものをまとめなおしたものである。

 企業の経営者を中心に、その「出処進退」ぶりをレポートしたものであるが、その内答については、各章のサブタイトルをみるだけで容易に想像がつくはずだ。

「公私裁然の男、太田垣士郎・関西電力初代社長」
「東京ガス・安西ファミリーの弁明」
「ホンダ三代『社長交代の流儀』」
「東急・五島家三代『世襲の帳尻』」
「日本航空・伊東淳二の469日」
「『昭和』 の偶像・中内功の行動原理」
「帝人・大屋普三、『永久政権』 の負の遺産」

 連載された当時は、大企業における経営者の世襲が話題を集めた時期であり、社会階層の固定化が重大な社会問題としてクローズアップされていた。本書で取り上げられている題材にも、世襲にまつわるものが多い。

 しかし、内橋氏の問題意識は、世襲だけにとどまっているわけではない。

 日本の企業においては、株式の持ち合いがあるためにトップの経営責任を追及する制度がなく、トップ個人の倫理観や哲学による以外は、経営者の「出処進退」を決することができなくなっている。

 「逆に言えば、権力者の人間性は『退き際』に凝集して表現される、ということもできる」と指摘する。

 本書を読むべき経営者は、日本には腐るほどいるはずだ。


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1996.01.22

▽Windows95の素朴な疑問100『EYE-COM』1995年11月15日号



 Windows、ウィンドウズ、宇印度渦……。
 猫も杓子もWindows。
 11月23日の「Windows95」発売を前に、コンピュータ
専門誌や経済誌だけでなく、一般週刊誌までWindowsの特集を組んでいる。

 どの雑誌を取り上げてもよかったのだが、『EYE-COM』を取り上げたのは、素人でもわかるような切り口で、Windowsのさまざまな疑問に答え
ているため。さすがアスキーというべきか、新参者の雑誌よりも、こなれた編集をしている。

 今さら言うまでもないことだろうが(多分)、Windows95は、パソコンの基本ソフトであり、これを買っただけで、何かできるというものではなく、これに対応したソフトを買わなければならない。

 日本のソフトメーカーは、Windows95の発売後に、ウィンドウズ対応のソフトを開発・販売することになり、そのタイムラグの間に、マイクロソフト(蛇足ながらWindows95の発売元)の販売するソフトにシェアを奪われることを恐れている。

 マイクロソフトは、「95」に続いて「96」「97」も準備中といわれ、ソフトメーカーは、新しいバージョンが出るたびに、対応するソフトを開発しなければならない。これは、お釈迦様の手の平の孫悟空のような状態といえる。パソコンのCPUも、インテルの独占状況にあり、日本は半導体を供給するだけ。日本の貿易黒字が永久に続くとは、考えにくいのである。 


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▽『覇者の誤算』



立石泰則『覇者の誤算(上)』(日本経済新聞社)



立石泰則『覇者の誤算(下)』(日本経済新聞社)




 この欄は、昔の出来事について書かれた書籍を現時点の問題意識で読むとどう読めるか、といった主旨で始めたものである。

今回取り上げるのは、ジャーナリスト・立石泰則氏が、日米のコンピュータ戦争を描いた『覇者の誤算』。といっても、今回の関心は、コンピュータ産業の盛衰についてではなく、「アメリカにおける日本企業の犯罪」。

 1982年6月23日、日本の新聞は一面で、IBM産業スパイ事件を大々的に報じた。これは、日立製作所と三菱電機の社員が、IBMの技術情報を盗もうとしたために、FBIのおとり捜査によって逮捕された、という事件である。

 本書にも、「高度技術商品で、アメリカは自動車の二の舞を演じてはならない」との米国政府高官の言葉が引用されているように、この事件は、日米の貿易摩擦という文脈で語られることが多い。日本でも、おとり捜査に対する感情的な反発は強かった。しかし、日立や三菱のダメージは小さくなかった。「技術の日立」の看板が地に落ちたように、日本メーカーの自主開発力のなさを露呈させた事件でもあった。結局、日本のメーカーは、IBMの軍門に下らされた。

 では、大和銀行のケースはどうか。巨額損失事件が何かの陰謀とは思えないが、アメリカに絶好の口実を与えてしまった。BIS規制が邦銀のオーバープレゼンスを規制するものであったように、趨勢としてのジャパンバッシングは、80年代も今も何ら変わってけないのである。


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1995.12.22

▽ミリオンセラーの正しい作り方――『頓智』創刊号

 筑摩書房が『頓智』という月刊誌を創刊した。「天下無敵の呑気雑誌」とのコピーが表紙に書かれており、談論風発的な雑誌となっている。編集長は、『筑摩文庫』や『筑摩文学の森』で、筑摩書房の立て直しに貢献した松田哲夫氏。

 この『頓智』編集部に一通のFAXが送り付けられた。「筑摩書房はミリオンセラーをなぜ出せないのか」この質問にこたえるかたちで、同社の書籍担当者を集めて会議が開かれた。では、ミリオンセラーを出す条件といえば、「当面の資金繰りも含め会社に体力があること」「ストライクゾーンを狭めてはいけない」「ハッピーエンドであること」「ただし、ノンフィクションの場合は泣けること」などなど……。

 さらにこの会議の模様を呉智英氏に見せてアドバイスを求めているが、「こういうのを面白いと思っているようじゃねぇ」と厳しい一言。世の中にはミリオンセラーの似合わない出版社もあるようで、この企画自体、半分はお遊びでやっているといえなくもない。

 松田編集長自身、78年に筑摩書房が倒産したときに、暇に明かせて単行本の一冊一冊の収支を分析したことがある、と自著『編集狂時代』述べている。

 「それまでの印象でいえば大成功と思えたものも、実は赤字になっていたとか、かなり地味な売上げと思っていたものでも、きちんとプラスになっていたものもあった」。

 話題になればいい、という訳でもないようだ。

▽松田哲夫『編集狂時代』(新潮文庫)

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▽『最終戦』



『最終戦 10.19 川崎球場~優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分』(文藝春秋)



 1988年10月19日、仰木監督率いる近鉄バッファローズは、対ロッテ二五・二六回戦のダブルヘッダーを戦っていた。この試合に連勝すれば、近鉄は八年ぶりのリーグ優勝を果たすことができるはずだった。

 近鉄は一試合目を難なくものにしたものの、二試合目は延長一〇回、ついに時間切れ引き分けで惜しくも優勝を逃してしまった。奇しくも、その日、オリックスが、阪急ブレーブスの買収を発表した――。

 仰木監督は、近鉄時代にも一度リーグ優勝を果たし、オリックスも就任二年目で優勝に導いた。こうした指導者の能力を高く評価して、多数のビジネス雑誌による仰木監督への取材申し込みが殺到している。しかし、仰木監督は、「野球以外の話はできない」と断っているという。

 そういえば、ヤクルトが優勝した時にも、マスコミに登場した野村監督に対し、必ずと言っていいほど「若い選手との付き合い方」について質問されていた。広岡達朗の管理野球ブーム以降、スポーツをビジネスのお手本にしようという風潮が強いが、私生活まで管理するようなやり方はどうかと思う。

 一方の、仰木監督は、自由放任を旨としながらも、成績にはきわめてシビアだという。いい結果が出れば何をしていても構わないというが、私生活も含め自己管理のできない選手にいい仕事ができるはずもない。結果からみれば、管理野球と同じかそれ以上の効果が得られているという。


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▽『デリバティブ規制で金融はこう変わる』――金融後進国ニッポンの「変わらなきゃ!」



安達智彦『デリバティブ規制で金融はこう変わる』(日本実業出版社)



 本書を書店で見かけたとき、表紙に描かれた「規制」の文字が小さく緑で囲まれていたこともあって、タイトルを『デリバティブで金融はこう変わる』と勘違いしてしまった。

 どちらともとれるような表紙のデザインは、ある意味でデリバティブと日本の金融界を取り巻く状況をうまく表現しているといえるだろう。内外の金融情勢を考えた時、デリバティブによって金融は変わるだろうし、その規制によっても変わらざるを得なくなる。特に、金融後進国ニッポンにとっては、厳しい変化を求められる時期を迎えている。

 日本にとって最大の変化は、デリバティブによって金融自由化の速度が加速される点にある。デリバティブによって資金の長期、短期や金利の変動、固定といった区別が取り払われたが、これは日本の金融界特有の業態という概念を一掃させ、予定よりも早く自由化の波をもたらした。

 一方、97年度にも導入されるBIS二次規制によって、邦銀のリスク管理能力も厳しく問われることになる。この二次規制を最高の条件でクリアーできる銀行は、日本にはわずか三~四行しかない。規制によってつけられる資本金格差は、収益力の格差をもたらし、必然的に邦銀の再編も加速させることになる。

 こうした背景をデリバティブの第一人者が易しく解説する。


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1995.11.22

▽『噂の真相』9月号 大蔵エリート官僚の……



 ジャーナリズムとしては、いささか問題のある『噂の真相』誌の記事を取り上げるのは、いささか気が引ける。

 しかし、世間をこれだけ騒がせている官僚接待の問題についてまったく触れないのもどうかと思う。この時期にこういう問題があった、ぐらいのことは、やはり触れておくべきだろう。

 さて、カマトトぶるわけでも何でもないが、官僚が受ける接待というのが、ここまでレベルの低いものだとは思いも寄らなかった。オウム真理教の教祖や幹部を批判するときに「えらくなればなんでもできる」という文句が使われたが、人間の組織はどこに行っても同じであることがよく分かる。続けて、「高学歴のエリートがなぜ?」と言ってあげるのもいいだろう。

 最近はあまり言われなくなったのかもしれないが、昔はよく、「飲む、打つ、買うができなくて一人前の男か」と言われたものだ。

 でも、それって自分でリスクをとって(当然自分のカネで)やるところに、意味があるんじゃないのでしょうか。それが、自己責任ってもんでしょう。

 それを、人にカネを払ってもらってなんて……。

 あぁ、情けない。


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▽「文章がうまくなりたい」――文章がうまくなるには優れた文章を読むべし

 編集者稼業をしていると、ときどきとんでもない文章に出会うことがある。

 普通の人にはとても書けそうにない、もっと分かりやすく言えば、バカか天才のいずれかにしか書けないような文章だ。しかし、そういう文章に出会ったときの驚きがあるから、編集者の仕事は面白いと言えるのかもしれない。

 しかし、バカでも天才でもない我々凡人は、名文や美文は書けなくとも、せめてきちんとした文章が書けないか、と願うのが普通だろう。

 まずは、「裏返し文章読本」と銘打たれた『悪文』(中村明著、ちくま新書)。タイトルの付け方がうまいのか、大手書店の売れ行き上位にも顔を出しているようだ。

 本書は、文章の構想の立て方、文の構造上の注意点、句読点の打ち方など解説項目は多岐にわたり、文章に関する小辞典といった趣だ。

 これよりも、もっと実践的な物として、そのものズバリ『ライターになる!』(CWS編、メタローグ)がある。

 メタローグか主催したライター養成講座の講義録をそのまま掲載したもので、インタビュー、書評、映画などの各ジャンルごとのフリーライターが、実戦的な方法論を伝授している。

 たとえば、「哲学的な文章を書く人に見られる傾向ですが、単語を括弧でくくる人が多いんですね。自分にとっては特別の意味があって使っているんですが、他人にとってはほとんどどうでもいいことです。不必要な括弧は文章の品位を落としますし、読みにくい」(中条省平「文章の書き方ー基礎編)。

 しかし、本来、文章を書くとは自分を表現することであり、そこには、書く喜びがなければならないはずだ。技巧よりもなによりも、書きたいことを書く、という姿勢が大切だろう。

 そうした原点を思い起こさせてくれるのが、『清水義範の作文教室』(清水義範著、早川書房)。パスティーシュ(模倣小説)の第一人者・清水義範が、弟が名古屋で経営している学習塾の生徒を対象に開いた作文教室の模様をそのまま一冊の本にしてしまった物である。

 FAXを使って作文のやりとりをしているため、本書の中では、清水氏は「東京先生」と称して作文の添削指導を行っている。勝手気ままに書いている子供達の作文を読めば、自分は子供の頃にどんな作文を書いていたかと、つい考えてしまう。

 既成の教育観にとらわれない清水の添削指導もむしろ参考になる。本書は、ただ読むだけでも抱腹絶倒になること請け合いだ。

 結局のところ、良い文章を書くには、優れた文章に出来るだけ多く接することにつきるのではないだろうか。

 名文のアンソロジーとしては、筑摩書房の『文学の森』シリーズや、『高校生のための文章読本』シリーズがお薦め。

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▽『ヨーロッパの死者の書』――よく死ぬためのマニュアルとは?



竹下節子『ヨーロッパの死者の書』(ちくま新書)



 柳田邦男の『犠牲』に比べれば、本書はやや観念的であるが、重要な視点を持っている。

 本書によれば、「死者の書」とは、死者が死後の世界でいかに振る舞うべきかというマニュアルのようなもので、生前にも読まれ、また、生き残った人がそれにしたがって死者をフォローし、死を共同体の事業とするためのものである。

 有名な「チベットの死者の書」を初めとして古代のさまざまな文化には、必ず死者の書があった。キリスト教には、そうしたタイトルの書物はないが、長い歴史の中で、「死者の書」に相当するものが、作られてきた。

 本書は、メソポタミア文明から始まり、タイトル通りに「ヨーロッパの死者の書」について触れていく。この中で、重要な視点とは何か。

 今の日本は、日本的なものをどんどん失いながら、西洋化した結果、死がきわめてネガティブなものになり、「生産と消費とのサイクルからはみでる弱者や死者は社会のシステムの外へ外へと追いやられるようになってしまった」という。

 そして、「私たちは『良く生きる』ためのマニュアルづくりにばかり奔走してきたけれど、『良く死ぬ』という方法論を視野にとりこんでいない限り、『良く生きる』マニュアルも決して完全なものにはならない」と指摘する。

 本書をベースに「日本の死者の書」が書かれることを望む。


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▽『犠牲 サクリファイス』――息子の死と「脳死」 “二人称の死”を提言




柳田邦男『犠牲 サクリファイス』(文藝春秋)



 本書は、ノンフィクション作家・柳田邦男氏が、自分の息子の死をきっかけに直面した「脳死・臓器移植」の現場を綴ったドキュメンタリーである。『文芸春秋』94年4~5月号に、二回に分けて掲載されたものに大幅に加筆したもので、二五歳で自らの命を絶った次男への鎮魂歌ともいえる。

 93年夏に息子を失って以来、著者は、「三か月をほとんど放心状態で過ごし」、もう作家活動を続けられないと本気で考えていた、という。それが、94年に入り、新聞の連載を引き受け、また、本書のもとになった原稿を執筆したのは、息子の魂の救済のためには自分がまず再生しなければ、と考えたからだった。

 息子の脳死に直面した著者は、これと同じ様な心理状態になっている。かつて、誰かの役に立ちたいと、次男が骨髄バンクにドナー登録していたことを思い出し、脳死後に骨髄移植できないか、申し出たのである。条件が合わず、骨髄移植できないとわかったとき、今度は腎臓移植を申し出る。惜別よりも、「志を成就させるために最善を尽くそうという前向きの感情が強くなっていた」という。

 著者は、自らの体験を描きながら、“二人称の死”という視点の提起する。欧米では、残された家族の「グリーフワーク(悲嘆の仕事)」を重要視しているが、日本の「脳死・臓器移植」の現場には、そうした点がまだ欠けているという。


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▽『「オウム真理教」追跡2200日』

江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』(文藝春秋)



 坂本弁護士一家の遺体も発見され、また、この9月から信者の公判ラッシュとなり、オウム真理教事件は一つの節目を迎えたことになる。本書は、オウム追求の急先鋒と江川紹子氏が、主に週刊文春に書いた記事を中心にまとめた物である。

 この坂本事件では、当初からオウム真理教は疑われていた。今になってオウム真理教の性格が分かった部分も多いが、その分を差し引いてみても、江川氏が初期に書いた記事は、十分説得力のある物だった。今となっては、当時の警察やマスコミの対応も、腹立たしい限りである。

 しかし、その後のオウム側のマスコミ操縦によって、オウム犯人説は次第に歪められていった。この点は、日本のマスコミ全体の反省点として十分検証される必要がある。

 江川紹子というジャーナリストの過去の仕事をみれば、オウム関連以外では、名張毒ブドウ酒事件などの冤罪事件や、『大火砕流に消ゆ』といった大新聞の報道姿勢を扱った物がある。

 一連のオウム報道では、江川氏は、反オウムの急先鋒としてテレビに出続けた。それは、ある部分、反オウムという点で利害が一致していたためでもある。しかし、テレビとて、一つの権力機構であり、人権を押しつぶすことも、容易に起こりうる。

 その時、大マスコミは、自らに都合の悪い相手に対し、手のひらを返すこともあるだろう。大マスコミの都合を越えて、仕事を続けられる、したたかなジャーナリストであってほしい。

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1995.10.22

▽世界情勢をおさらいする――”国際化”を忘れた内向き日本を反省する



 阪神大震災、オウム真理教事件、そして取り付け騒ぎ。95年の日本は、ビッグニュースに事欠かない。

 長引く不況や政治の不安定さも手伝って、今ほど、日本人が内向きになっている時期も、ここ数年では珍しいことだろう。

 日本以外の国の報道は、あまり関心が持たれなくなっている。そこで、95年に入って出版された本を中心に、最近の出来事を、おさらいしてみよう。

 最近になって、また軍事的緊張が高まりつつあるのが、旧ユーゴスラビア。セルビアと敵対するクロアチアは、クロアチア領内のセルビア入居住地域・クライナ地方を軍事的に制圧。多数のセルビア人が、隣接するボスニア・ヘルツェゴビナに流れ込んだ。

 クロアチアは、さらに別のセルビア人居住地域・東スラボニアの制圧も狙い始めた。東スラボニアはセルビアの国境に接しており、東スラボニアを挟んでクロアチアとセルビアが対峙する格好となっている。

 『東欧 再生への模索』(小川和男著 岩波新書)は、89年の東欧革命以後の東ヨーロッパを、経済的側面を中心に概観している。現在の東欧はさまざまな問題が数多くあるが、「基本的には東欧の人々が自ら一つ一つ解決していくほかに特別な手立てはない」。

 先ごろ日本を訪れたのが、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領。悪名高かったアパルトヘイトの下で、二七年間投獄の後、90年2月にマンデラ氏は解放された。その後、国際世論の後押しもあり、急速に民主化は進展した。94年4月には、史上初の全人種参加の制憲議会選挙が行われた。マンデラ氏率いるANC(アフリカ民族会議)が過半数を獲得、マンデラ政権が誕生した。

 『マンデラの南ア』(天木直人著 サイマル出版会)は、外務省でアパルトヘイト問題に取り組んだ著者が、アパルトヘイト廃止への過程を跡づける。特に「日本にとっての南ア問題」は、当時の論争を振り返りながら、日本の対応を検証する。

 マンデラ氏と同じように軟禁状態となり、つい先ごろ解放されたのがミャンマー(旧ビルマ)のアウン・サン・スー・チー女史。彼女については、『アウン・サン・スー・チー―囚われの孔雀』(三上義一著 講談社文庫)が詳しい。

 アウン・サン・スー・チーとは、第二次大戦中にビルマ軍を率いて対日武装蜂起したアウン・サン将軍の娘。

 ネ・ウイン大統領の独裁政権下で88年に起きた反政府デモの弾圧「流血の金曜日」事件をきっかけに、民主化運動が高まった。スー・チー女史はその民主化運動のリーダー的存在だったが、89年7月から自宅に軟禁された。この7月、ようやく解放されたが、日本政府・企業は、すぐさま援助・経済協力を再拡大させた。民主化進展を評価して、と言うが、やや性急な感がするのは否めない。


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▽企業の戦争責任――『週刊ダイヤモンド』1995年7月22日号

 8月15日をピークに、あらゆるメディアで戦後五〇年というテーマが取り上げられている。

 『週刊ダイヤモンド』7月22日号では、「企業の戦争責任」という特集が組まれていた。7月22日号の発売は7月中旬となるために、他のメディアにおける戦後五〇年特集のピークよりも一カ月も早い特集であった。

 ただ、同誌が取り上げた「企業の戦争責任」というテーマは、これまであまりスポットのあてられた部分ではないと思う。

 90年代に入って、第二次大戦中に大企業によって行われた中国人・朝鮮人の強制連行に対する損害賠償請求が、相次いで提訴されている。こうした強制連行に対し多くの企業は「国策に沿って行動しただけ」と答え、また、社史にそうした事実が記載されていないことを、この特集は示している。

 日本全体の戦争責任問題も含め、こうした問題を戦後五〇年の年だけ、あるいは年に一回だけ検証すればよい、というものではないだろう。また、こうした問題の当事者やずっと研究している人たちからすれば、同誌の検証は物足りない部分もあるかもしれない。

 さらに、商業誌という観点に立てば、この特集をした号は、部数的にはあまり成績が良くなかった、とも問いている。

 しかし、歴史のある出版社として、時には商業ベースにこだわらずに、取り上げなければならない問題もあるだろう。ダイヤモンド誌の心意気にエールを送りたい。

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▽『戦争映画名作選』

柳沢一博『戦争映画名作選』(集英社文庫)



 今年、1995年は戦後五〇年。また、フランスのリミュエール兄弟が、パリで世界初の映画を公開して丁度一〇〇年にあたる。戦後五〇年、映画一〇〇年。いずれも多くのメディアによって特集が組まれる重要なテーマ。本書は、その両方を一遍に特集してしまおう、という大作だ。

 本書の構成は、「ヨーロッパの戦い」「アジア・太平洋の戦い」「海と空の戦い・捕虜と市民」の三部からなる。

 多くの戦争映画を、時系列・テーマごとに紹介しており、かつて見たことのある戦争映画が、第二次大戦史上のどこに位置づけられるかを再確認できる。また、同じテーマの戦争映画であっても、それが作られる時代や国によって描かれ方がいかに異なるかもよくわかる。

 巻末には、本文で紹介できなかった映画のリストも掲載されている。これらを見るといかに多くの映画人たちが、エンターテイメントからドキュメント、文芸ものまで、「第二次大戦を物量を費やし、かつ精魂を傾けて、描いているものと理解いただけると思う」。

 しかし、第二次大戦を扱った映画は70年代以降あまり作られなくなり、最近では「シンドラーのリスト」が話題となる程度でほとんど作られていない。

 第二次大戦をテーマにした映画は、なぜあまり作られなくなったのか。そして、それは何に取って代わられたのか。戦後五〇年を文化の面から考える、一つのポイントがそこにある。

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1995.07.10

▽「サンデープロジェクト」5月28日放送――よく分かる官僚・第三弾




 5月は、どの雑誌もオウム真理教絡みのものばかりなので、今回は番外編として、「テレビ界の月刊文章春秋」ともいわれている(?)「サンデープロジェクト」を紹介する。

 5月28日の放送では、この4月に、各省庁に入省したばかりの新人官僚三一人を集めて、アンケートを実施している。さまざまな質問に対し、YES、NOのボタンを押して回答するという形式。YES、NOの他に「立場上言えない、ノーコメント」というボタンがあるのがユニークだった。

 いくつかの質問・回答を紹介すると、「東京都市博は中止すべき」YES九、「世論が反対しても自分が正しいと思う政策は実行する」YES一二。

 接待に関しては、「料亭くらいはかまわない」YES一五、「ゴルフくらいはかまわない」YES一七、「自家用ジェットに乗ってもかまわない」YESゼロ……。

 また、「日米自動車交渉の日本の態度は正しい」「アメリカは好きですか」の二つの質問で、YESがどれも二〇以上だったことに対し、コメンテーターの高坂正尭は「バランスがとれている」と評価しながらも、「言うべきことを言っても、嫌いにならずにいるのは難しいことで、是非これを維持してほしい」と提言している。

 しかし、画面をよくみると、大蔵省からは一人も出演していなかった。「大蔵省は特別ですか」という質問に、YESと答えた人が二一人いたのが、印象に残った。


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▽『中核VS革マル』

立花隆『中核VS革マル<上>』(講談社文庫)



立花隆『中核VS革マル<下>』(講談社文庫)



 『田中角栄研究』に続く、立花隆の現代史ノンフィクション。

 70年代半ばの新左翼運動の退潮期に、中核派と革マル派という二つの過激派セクトによる内ゲバ事件が相次ぎ、合わせて三〇人を超える死者を出していた。この両派の抗争についてのレポートを立花隆は74年から75年にかけて『現代』に連載し、直後に単行本にまとめている。

 当時は、田中金脈問題で日本の保守政泊も動揺していた時期でもあるが、多くの人々が「“田中問題”とほとんど同じくらいの関心をもって、両派の抗争を話題とした」という。それは、「もし、両派の抗争が、一方が他方を解体するという形で終われば、勝ち残ったほうが、共産党より左の部分を代表する最大の全国組織となる」ためだった。

 しかし、両派の抗争の裏には、双方を消耗させることを意図した公安警察の暗躍があった、と立花氏は主張している。

 最近の立花氏は、一連のオウム真理教の事件にも公安の関与があった、と主張をしているが、その原点は、おそらく本書にあるのだろう。もちろん、一部のジャーナリストの間には、そうした見方を否定する意見もあり、本当のところはわからない。

 いずれにせよ、本書にみられるような、かつての公安の実力からすれば、オウム真理教事件、特に「地下鉄サリン事件」は、公安警察の失策だった可能性が高い。もちろん、公安警察が活躍するような世の中がよいと言うわけではいが……。

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1995.06.10

「風の谷のナウシカ」に関する主観的一考察――『エコノミスト』5月2・9日号

  『「超」整理法』の著者としても知られる、野口悠紀夫一橋大学教授が、『エコノミスト』誌上に「(晶展の引き倒し)的ナウシカ論」を展開している。「短期集中連載」と銘打ち、三週にわたって掲載されるようで、野口教授の「意外な一面」がかいま見れて興味深い。

 前々から、いわゆる知識人が『ナウシカ』をきちんと論じようとしないことに、ふがいなさを感じていただけに、野口先生の試みは、高く評価していいだろう。しかし、第一回目を読む限りでは、やや強引にまとめすぎているのではないか、という印象を受ける。

 というのも、作者である宮崎駿は、異常な話好きであり、膨大なインタビューをまとめる際に編集者の主観が入ってしまい、話す内容が媒体によって違っていることが多い。事実、ある雑誌では「僕自身は、ナウシカを巡って全く変わっていない」と述べており、どれが宮崎駿の本音なのか、十分検討したうえでないと論じにくい面がある。

 また、『ナウシカ』が当初の構想から変質したことを指摘しているが、そのこと自体はそれほど重要なことではない。

 論ずべきは、かつて共産党シンパだった宮崎駿が、なぜ主人公自らが「来るべき理想郷」を捨て去る結末を作ったか、という点に尽きるはずだ。

 物語の終わり近くになって、「虚無」というキーワードが盛んに登場する。現代思想を少しでもかじったことのある人なら、その意味するところを直感できるだろう。

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▽『日米関係の経済史』――経済関係を軸に日米関係を概観する



原田泰『日米関係の経済史』(ちくま新書)



 今さら改めて言うほどのことではないのかもしれないが、幕末以降の日本の歴史は、アメリカを抜きに語ることは出来ない。ペリー来航、GHQ占領に続き、「日米構造協議」は第三の開国とさえ言われている。こうした、きってもきれない日米関係を、経済を軸に概観したのが本書である。

 著者は、冒頭に日米関係における疑問をいくつかあげている。そして、最大の謎として「戦前期においても日本とアメリカは決定的な利害対立をもっていなかったにもかかわらず、日本はなぜ対米戦争に走らなければならなかったのか」という問いを掲げている。

 こうしたいくつもの疑問点について、日米双方の事情を説明しながら、著者なりの見方を示していく。特に、著者が最大の謎としてあげる「なぜ対米戦争へと突っ走ったか」についても、興味深い指摘をしている。

 著者は、まず「日露戦争の後に、日本の置かれた状況をきちんと説明しなかったことから、その後の歴史の過ちが始まるといってよい」と述べている。日露戦争は、兵力の面からも、戦費の面からも戦えない状況に陥っていたにもかかわらず、政府はそれをきちんと説明しなかった。そのために、弱腰の政府が賠償金もとらずに講和した、という世論が巻き起こってしまい、これ以降政府は、対外強硬主義をとらざるを得なくなってしまったという。

 そして、満州事変をおこした関東軍は、ノモンハンでソ連軍と戦って圧倒的な負け方をしたにもかかわらず、満州の権益を放棄して撤退する、という決断が出来ず、それが対米戦争につながっていった。

 そうなった理由の一つには、日露戦争同様に、何もとらずに撤退するのは、世論が許さないと言う雰囲気があったためだ。そして、もう一つの理由は、関東軍が「国家より関東軍という組織を大事と考えた」「関東軍の目的は、戦争ではなく組織の維持であった」ためである。事実、関東軍は最後まで戦わず、敗戦まで兵力を温存していたのである。この関東軍の体質は、欧米の実力をみるや、すぐさま攘夷論を捨てた薩長の指導者の現実主義とは決定的に異なっていた、と著者は指摘する。

 また、戦後のGHQの対日経済政策についてなどにも、興味深い指摘がある。ただ、第8章「日米構造協議」以降、第10章「日米関係の未来」までの比較的最近の話題になると、構造協議以降のアメリカの主張が誤りであることを説明することに、叙述の多くが割かれ、やや面白味にかけている。

 アメリカの主張が、正当かどうか、についての議論はもちろん重要なテーマである。しかし、たとえば、アメリカが間違った主張を続けた場合には日米関係はどうなるのか。あるいは、それを方向転換させるにはどうすればよいのか、といった点にも考察を加えて欲しかった。

 また、著者は日本が一番すべきこととして、「日本が自由貿易の旗手になり、日本の市場を世界に開くこと」をあげているが、それが出来なかった場合に日米関係はどうなるのか。そしてまた、市場開放を妨げ、日本の国益に反した行動をとる「現代の関東軍」とは一体何なのか。こういった点にまでもっと踏み込んで欲しかった。


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1995.05.10

▽財産を守る個人の危機管理――『日経マネー』1995年5月号



 阪神大震災は、日本全体に危機管理の重要性を再認識させた。行政や企業のレベルだけでなく、個人レベルの危機管理について、雑誌などでさまざまな企画がたてられている。家庭用金庫の選び方、銀行の貸金庫の利用の仕方、火災保険・地震保険・生命保険の仕組み、住宅ローンの問題、マンション建て替えの問題……。

 「備えあれば憂いなし」と言うものの、実際こうしたアドバイスを実行できるのかといえば難しい面もあるだろう。

 『日経マネー』の特集でも、「危機管理を意識した鉄壁のポートフォリォ」を紹介している。たとえば、一〇〇〇万円の個人資産「定期預金三〇〇万円、ビッグ三〇〇万円、MMF二〇〇万円、株式二〇〇万円、普通預金少々」は、「定期預金・定額預金四五〇万円、貯蓄預金七〇万円、株式二〇〇万円(銘柄を乗換える)、建物更正共済一五〇万円、金地金五〇万円、外貨預金五〇万円(独マルク)、現金三〇万円、普通預金少々」と分散する案を紹介している。運用の中心は、定期預金と郵便局の定額貯金であり、とくに「定額貯金は国家信用を背景にしているため国債に次いで安全性が高い」と紹介している。

 話はそれるが、二信組の問題以降、庶民レベルでは郵貯が見直されている。郵貯は財投で運用されているが、財投の赤字はいずれ税金で補填されるだろう。税金で平等に負担をおうのであれば、今のうちに郵貯に預けておくのがベストの選択なのだろう……。


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▽「宗教を学ぼう!」――「終末思想」を唱える仏教って、いったい?



 なんだか、宗教が騒がしい。

 かねてより、第三次宗教ブームと言われてきたが、現在の最大の関心事は、やはりオウム真理教。一新興宗教が、秘密の化学工場をもち、毒ガスを製造する・・。恐しい時代になったものである。

 ところで、マスコミの報道によると、オウム真理教の教義では、世界は97年にハルマゲドン(最終戦争)へと突入するという。しかし、そもそもオウム真理教は、自ら仏教徒を名乗っている。仏教には、世界はだんだん悪くなるという「法末思想」はあっても、「終末思想」は無いはずだ。ハルマゲドンといえば、キリスト教における概念。いったいどうなっているのだろう?

 ここは、一つ宗教をきちんと学んでみるのもいいかもしれない。一般に、宗教に関する書物は、宗教家が自分の信ずる宗教の教義や宗教体験を語ったものが多く、部外者には分かりにくい。宗教学者や歴史学者の書いた難しい本を、読むのも骨が折れる。簡単に宗教を解説したものを探してみると、阿刀田高著『旧約聖書を知っていますか』『新約聖書を知っていますか』(新潮社)が、キリスト教を知るにはいちばん手っ取りばやい。旧約、新訳の各聖書をかなり、というか目茶苦茶大胆にダイジェストにしたものだが、ユダヤ民族の歴史書としての旧約、イエス=キリストの行動録としての新訳としてのエッセンスは読み取れる。

 この二冊で得た知識をもとに、続けて読みたいのが、ひろさちや著『仏教とキリスト教』(新潮選書)。仏教徒のひろさちやが、五〇の質問に答える形で、キリスト教と仏教の比較をしている。日本人にとっては、輪廻を抜け出た世界といえば極楽浄土しか思い浮かばないが、極楽以外にも浄土世界はたくさんある、という。同じ著者の『仏教と神道』も続けて読むと、日本に伝わった仏教が、いかに本来の仏教と異なってきているかが分かり興味深い。

 シリーズ三部作の『キリスト教とイスラム教』もよめば、取りあえず三大宗教+神道を制覇したことになる。あとは、青土社の「シリーズ世界の宗教」などでブラッシュアップしてはいかがだろうか。

 最近の新興宗教の動向に関しては、やや古いが、別冊宝島『いまどきの神サマ』が詳しい。このなかでは、オウム真理教の入信体験記が綴られており、中々興味深い。これを読むかぎりでは、それほど狂信的な宗教ではないという印象を受ける。しかし、本書が出版されて五年もたっており、その間にオウム真理教が、大きく変質したとみるのは間違いではないだろう。

 キリスト教の歴史も、当初は迫害の歴史であった。一連の事件を、迫害と受け取ったオウム真理教が、より狂信的な宗教組織へと変貌する可能性が全く無いとも言い切れない。日本は、まさに世紀末を迎えようとしている。


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▽『ヘーゲル・大人のなりかた』――いまこそヘーゲル? みんな悩んで大きくなった



西研『ヘーゲル・大人のなりかた』(日本放送出版協会)



 日本人のように忘れっぽい国民性の中にあっては、少し前のことを振り返るということは、きわめて意義のある?精神的態度″といえる。80年代にブームとなった「現代思想」などは、絶好の振り返りネタだろう。

 80年代に流行った「ポスト・モダニズム」は、70年代までの哲学の中心思想であったヘーゲルに対する批判から始まった。それは、「社会変革を目指す思想(広い意味でのマルクス主義)にはもうウンザリした」という時代背景があったためだ。

 ポスト・モダニズムで代表的な思想家は、ジャック=デリダ、ミシェル=フーコー、ジル=ドゥールズなどのフランスの哲学者たちであった。彼らが、依拠したのは、ヘーゲルとは異なる思想的展開をしたニーチェであった。

 しかし、「ヘーゲル批判」を最重要課題としたポスト・モダニズムも、かつての勢いは失っている。ポスト・モダン思想は、著者が言うように「過渡期の思想だった」のだろうか。少なくとも、80年代の思想的欄熟を、もう一度検証する時期にきているのは、間違いない。

 ヘーゲルだけではなく、ニーチェやウィトゲンシュタインなどの入門書や伝記なども、最近相次いで刊行されている。思想的な空白は、しばらく続くものと思われるが、今のうちに知的ゲームとして、自分にピッタリくる思想を探してみるのも意義のあることだろう。


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▽『日本の地価の決まり方』――「土地神話」の実態を暴く地価論議の決定版



西村清彦『日本の地価の決まり方』(ちくま新書)



 いまもっとも元気のいい新書をあげるとするならば、昨年秋に創刊された「ちくま新書」をおいてほかにはないだろう。かたいテーマとやわらかいテーマとで、書体を変えるなど、他の新書にはない凝った作りをしている。

 また、読者の関心の高いテーマを積極的に取り上げている。本書『日本の地価の決まり方』も、タイムリーな一冊と言えるだろう。

 さて、80年代のバブルから、90年代のバブル崩壊にかけて、「地価」の問題は、さまざまな形で議論がなされてきた。

 地価論議の集大成ともいえる本書によれば、日本の地価の変動は、85年まではいわゆる「ファンダメンタルズモデル」で説明できるが、86年のバブル以降は説明不能になる、という。

 ただし、85年以前であっても、日本の地価の水準は、「ファンダメンタルズモデル」による想定よりもきわめて高くなっている、という。

 現在の最大の関心事は、地価がどこまで下落するかであるが、この点については土地バブルを説明する四つの 「非ファンダメンタルズモデル」を検討したうえで著者の見方を示している。

 著者は、地価水準に大きく影響を与えている税制の歪みも、都市計画の悪意性も政治家とさまざまな圧力団体の合理的な活動の結果である、と指摘する。

 本書を読めば、「土地神話」の向こうに横たわる「現実」をみてとることができるはずだ。


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1995.04.10

▽「阪神大震災」――発生から二カ月が経過、進まぬ復旧作業



 阪神大震災が起きてから、すでに二カ月が過ぎようとしている。復興への動きは見られるもの、依然として二〇万人が避難生活を強いられている。

 阪神大震災では、政府の対応の遅れが重大な問題となった。テレビの中継が事態の悪化を刻一刻と伝えて行く中で、「国が国民を見殺しにした」と感じた人も多いはずだ。自衛隊の出動が遅れたのは兵庫県知事の要請が、午前一〇時になるまでなされなかったためだ、といわれている。しかし、一万人規模の動員が、さらにそれから丸一日たってからというのは遅すぎるのではないだろうか。「イラクに侵攻されたクウェート」を連想したのは、私だけだろうか。

 国に、頼っていられないことがはっきりしたためか、『民間防衛』(スイス政府編、原書房)の売れ行きが伸びている。これは、スイス政府が、スイス国内の全家庭に一冊ずつ配布したものを翻訳した本で、かつて絶版になったものが大震災直後に新装本として発売された。すでに一〇万部が売れている。実際には、地震の本ではなく、核戦争を含めた戦争を想定したほんである。日本の危機管理能力のなさが、本書をベストセラーにしてしまっている。

 その張本人、村山首相は「予想外のこと」と国会で答弁しているが、地震の発生が休み明けの早朝だったのは、まさに「不幸中の幸い」であったはず。関東大震災と同じ、午前11時58分に発生していたら、死者の数は、ケタが一つ違っていたはずだ。『関東大震災』(姜徳相著、中公新書)にみられるような、流言飛語にもとづく暴動がなかったのは、幸いだった。

 また、ヘリコプターによる消火もできるのか、できないのかはっきりしていない。もしできないのならば、早急にそうした技術を開発すべきだろう。

 阪神大震災では、テレビの報道も反省を迫られる。あるテレビ局では、震度六以上の地震があれば自動的に特報体制を組むマニュアルが作られていたというように、初期報道においては、きわめて重要な役割を担っていた。

 しかし、事態が明らかになるにつれ、被災者に有益な情報を流せたかと言えば、疑問が残る。たとえば、被災者への援助物資を送るにしても、一つの箱に色々なものを詰め込むと、仕分け作業が大変になる、あるいは、状況に応じて必要なものが代わっていくというようなことは、雲仙や奥尻や八戸の時にすでに分かっていたはずのことである。テレビも、一般の人が何をすべきか、もっと呼びかけるような報道をしても良かったはずだ。情緒的な報道が混乱を招き、被災者の感情を逆撫でしたことは否定できない。

 はっきり言ってしまえば、雲仙も奥尻も八戸も、大都市の人間には他人事でしかなかった。雲仙や奥尻や八戸をきちんと語ってきた者にしか、阪神大震災を語る資格はなかったのだと思う。


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▽『マルコポーロ』1995年2月号 ナチ「ガス室」はなかった。



 問題の記事は、ある意味で“よく出来て”いた。「ホロコーストは作り話だった」という説を披露した後で、「読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることができなかった」と前置きし、記事の最後は「この記事をアウシュビッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい」と結んでいる。

 胡散臭い記事というのは、文章表現が感情的であったり、大上段に構えていたりしており、読者もそうしたニオイを感じながら、話の中身を割引いて読んできたはずだ。

 しかし、問題の記事は、そうした胡散臭さは極力ぬぐい去られている。この加工度の高さ=文春ジャーナリズムの本質、と読者が思うようになったら、文芸春秋の雑誌は、何を書いても信用されなくなってしまい、その損失はきわめて大きい。

 文芸春秋という出版社は、ジャーナリズムとエンターテイメントを兼ね備えた出版社であった。どちらも、人を育てるのに時間のかかる分野であり、この二つの分野で同時に強みを持つ出版社はほとんどない。テレビ界でいえば、ドラマと報道が二枚看板だったTBSが、情報産業を指向し始めたとたんに、どちらもおかしくしてしまったのが記憶に新しいはずだ。

 しかし、今回の廃刊は、広告主の圧力に負けた、という印象が拭えない。「南京大虐殺はなかった」と主張しても雑誌がつぶれないのと対照的だ。


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▽『岸辺のアルバム』



山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞出版局)



 妻の不倫、子供の家出など、「家庭の崩壊」をテーマとした山田太一の代表作。77年にはテレビドラマとなり、日本のドラマ史において、決定的な転換点をもたらした。74年に東京都狛江市で起きた、多摩川水害を題材にしており、洪水によって家が流されるシーンでは、実際のニュース映像が使われている。

 高度経済成長を経て家を持つことが、重要な人生の目的となった。そのサラリーマンにとって、家を失うことは、自分の人生を失うことに等しく、また、家を失うことが家庭の崩壊と重ね合わせて描かれている。

 しかし、洪水によって家が流される寸前に、家庭の記録であるアルバムを、家族が力を合わせて取りにいく。このことをきっかけに、家は失われたものの、家庭を取り戻すことができた、というのがドラマの結末である。

 現実の多摩川水害では、家が流された後には、「二重ローン」といった苦難が待ち受けていた。この問題は、阪神大震災の被災者が、これから直面するであろう問題とよく似ている。

 住民が国を相手取って起こした「多摩川水害訴訟」は、一審勝訴、二審敗訴、最高裁による差し戻し、差し戻し控訴審の勝訴という曲折を経て、92年12月に、国の賠償責任が確定するまでに、実に一八年の歳月が流れている。この間原告の中には、亡くなった人もいる。

 阪神大震災の被災者には、アルバムどころか、家族さえ失った人もいる。“救い”のドラマは、一体どのように描かれることになるのだろうか。


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▽『物語 アイルランドの歴史』――和平実現なるか? イギリスの裏面史をたどる



波多野裕造『物語アイルランドの歴史―欧州連合に賭ける“妖精の国”』(中公新書)



 94年9月のIRA(アイルランド共和軍)の停戦合意により七〇年余り続いてきた北アイルランド紛争は、ようやく解決の糸口をつかんだかに見える。

 本書は、日本人にとって馴染みの薄いアイルランドの歴史を概観することができる。そこではイギリスの植民地支配の苛酷な一面が見てとれる。

 最近は、ヨーロッパの先住民族「ケルト」に注目が集まっているが、アイルランド人には、ケルト文明の影響が色濃く残っている。このケルト民族に、北欧系の民族が合流し初期のアイルランド人を形成した。イギリスによる支配が始まったのは、イギリス史における「ノルマンコンクェスト」の時代である。これ以降八世紀にわたり、少数のイギリス人が多数のアイルランド人を支配する構図が作られ、時代とともに、少数のプロテスタント(イギリス人)による多数のカトリック(アイルランド人)の支配へと移行する。

 1921年に、英・アイ条約が結ばれ南アイルランドは独立したが、プロテスタントが多数を占める北アイルランドは連合王国(イギリス)にとどまった。少数派となった北アイルランドのカトリックは、二級市民の扱いを受けるようになった。これが、血で血を洗う北アイルランド紛争の原因である。

 アイルランド史はまさにイギリスの裏面史である。その意味では、イギリスの歴史が頭に入っていないと本書はやや分かりにくい。


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1995.03.10

「イジメ」――イジメ、集団リンチ 事態はさらに悪化する?

 

 愛知県では、1994年11月に、イジメによる自殺事件が発生し、大きく報道されている。

 1994年末、愛知県で緊急出版された『清輝君がのこしてくれたもの』(中日新聞本社・社会部編、海越出版社)は、遺書の全文や中日新聞に掲載された記事・投書をまとめたものだが、関心の高さも手伝って、すでに数万部が売れたという。

 思春期の自殺というのは原因が分かりにくいケースが多いとはいうものの、たとえイジメが原因であっても、詳しい遺書がなければ、ウヤムヤにされてしまうのは、やりきれない話である。ベストセラーになった『いじめ撃退マニュアル』(小寺やす子他、情報センター出版局)では、「死にたくなったら遺書を書け」といったように、深刻なイジメに対処する方法を、あえて明るいタッチで紹介している。

 『「葬式ごっこ」―八年後の証言』(豊田充著、風雅書房)は、朝日新聞の記者である著者が、86年におきた中野富士見中学での事件について、当時の同級生たちにインタビューしたものである。80年代半ばにはイジメが多発したものの、この事件以降はイジメの件数が減少したと言われている。しかし、それは数字上の事であり、中学生を取り巻く環境は、当時と今とでも、さほど変わっていない。その意味では、本書から読みとれることも多い。

 昨年11月には、岐阜県で集団リンチ事件があった。少年による凶悪事件が、しばらく起きていなかっただけに、イジメ同様、忘れていたことをふたたび思い出させる結果となった。

 『ガキのきもちはわかるまい』(風雅書房)では、ルポライターの藤井誠二が、「女子高生監禁殺人事件」などの少年による凶悪事件には、いずれも「シンナー」が介在していることを指摘している。岐阜県で起きた集団リンチ事件でも、加害者グループの少年達は、シンナーを常習していた。

 94年は、一般市民にとって銃による犯罪が身近になった年でもあった。「中学生の銃犯罪」などという、笑えない現実は、もう目の前に迫ってきているのかも知れない。

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▽『ドイツ銀行』――ユニバーサルバンクの雄ドイツ銀行を徹底解剖



相沢幸悦『欧州最強の金融帝国 ドイツ銀行』(日本経済新聞社)


 
 大和銀行のコスモ証券救済、三菱銀行の日本信託救済。「特例」も二度も続けば、もはや「特例」とはいえない。日本の都銀も、やがてはドイツ型のユニバーサルバンクに近づいていくことになるのだろう。

 「欧州最強の金融帝国」という副題のつけられた本書では、典型的なユニバーサルバンクであるドイツ銀行を、成立過程、機構、業務、産業政策、国際戦略と多角的に分析している。本書によれば、ドイツ銀行は単なる商業銀行ではなく、「国家の行く末を考える銀行」だという。

 1974年、中東産油国が、ダイムラーベンツの株式の過半を取得しようとした時、ドイツ第二位のドレスナー銀行は、純粋な証券業務として、それを行おうとした。しかし、ドイツ銀行は、この買収を阻止するために市場価格から一〇%も高い価格でその株式を引き受け、「国益を考えた行動」として賞賛された。

 ドイツでは、日本と違い、銀行による株式所有に制限がないために、銀行の企業支配力はきわめて強くなっている。産業界からは、折に触れ反発の声があがるものの、銀行の支配力は揺るぎないものとなっている。

 しかし、ドイツ銀行の信用力が揺るがないのは、ユニバーサルバンクという制度のためではなく、堅実な経営姿勢の結果である、と著者は指摘する。日本の金融機関関係者には、耳の痛い指摘だろう。


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▽『検屍官』――女性検屍官ケイが活躍するミステリーのヒット作



パトリシアコーンウェル『検屍官』(講談社文庫)



 年末年始に、シリーズ五作を続けて読んでしまったために、『検屍官』シリーズの主人公ケイは、公私にわたって私がもっともよく知っているアメリカ人になってしまった。

 92年に第一作『検屍官』がベストセラーになって以来、『証拠死体』『遺留品』『真犯人』といずれもヒットを続けている。昨年末、最新作の『死体農場』が出たこともあって、書店によっては『検屍官』のコーナーを作っているところさえある。

 このシリーズが好評を博している要因を、あえて分析すると、まず、毎回、猟奇的な連続殺人犯が登場することがあげられる。これは、『羊たちの沈黙』などの、いわゆるサイコスリラーがヒットしたように、最近のミステリーの一つの流れに沿ったものである。

 また、検屍官が死体を検分する描写が詳しく描かれており、最先端の科学捜査の情報を得ることができる。コンピュータシステムがストーリーに絡んでくる部分もあり、現代的なリアリズムをもたらしている。

 そして、働く女性を取り巻く環境が、やや大げさだがそれなりのリアリティをもって描かれていることも上げられる。とくに、この部分に共感する読者も多く読者カードの三分の二が、有職女性からのものだという。

 これらの要素が、なぜ一つの作品に現れるかといえば、著者のパトリシアコーンウェル(女性)の経歴が関係している。コーンウェルはもともと、新聞の警察担当記者として犯罪に関する記事を書いていた。新聞社を辞めた後は、バージニア州の検屍局でコンピュータプログラマーとして働いた。まさに『検屍官』を書くためのキャリアだったともいえるだろう。コーンウェルは、第一作でアメリカやイギリスの主要なミステリー賞の新人賞を四つも獲得するなど、アメリカでもっとも有名なミステリー作家になってしまった。

 では、日本のミステリーファンの受けとめ方はどうか、といえば、あまり芳しくない。『このミステリーがすごい』(宝島社)や『週刊文春』の人気投票でも、『検屍官』シリーズは上位に入ったことがない。

 『このミステリーがすごい』において『新宿鮫』の作者である大沢在昌が、「あいかわらず腰砕けだが、いつもこの人の導入はみごとだよね」と述べているが、的を得た指摘だろう。事件の解決に関し、「偶然」が作用するケースがどの作品にも共通してみられ、その部分がやや「腰砕け」のように感じられる。しかし、導入から、事件が展開していく過程は、大沢在昌が認めているように、やはりうまいといえるだろう。

 一冊約五〇〇ページあるが、四五〇ページ当たりまでは目が離せない。ただ、欲を言えば結末をもう少し、という感じである。逆に言えば、少し物足りなさを残すのがシリーズとして成功する秘訣なのかもしれない。
 
 年一冊のペースだが、五作目ですでに一〇年が経過しており、相棒のマリーノ刑事や姪のルーシーとの関係もどんどん変化している。こうした脇役もよく書けており、小説としての広がりを見せている。

 一冊六八〇円が、損か得かといえば、損はしないと思う。個人的には、第二作の『証拠死体』がお薦め。暇な方は、どうぞお試しあれ。


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▽テレビ戦線異常あり――『創』1995年3月号



 1994年の「視聴率三冠王」は、日本テレビが獲得した。視聴率三冠王とは、ゴールデン(午後七~一〇時)、プライム(午後七~一一時)、全日(午前六~深夜〇時)の各時間帯での、平均視聴率がすべてトップになることをいう。これは、フジテレビが言い出したものだが、93年までは一二年間連続してフジテレビが三冠王だった。94年のフジテレビは、ゴールデンとプライムで日本テレビと同率首位となり「二冠」は獲得したものの、三冠王の座を奪われてしまった。

 『創』2月号の「日テレ・フジの3冠王めぐる激闘」というレポートは、このあたりの経緯を詳しく述べている。94年11月の段階で、すでにフジテレビは三冠王をあきらめていたという。全日での視聴率が、日本テレビに大きく水をあけられていたからだ。しかし、ゴールデンとプライムは、僅差の二位。そこで、フジテレビは「日本テレビの三冠王阻止」を至上命題に掲げ、年末の特番攻勢を仕掛けたという。フジテレビは、88年にもTBSを相手に特番攻勢をかけたことがあり、その再現となった。

 最近のテレビ番組には、54分から始まるものがある。もともと一時間の枠が、五四分と六分に分けられているのは、六〇分の場合よりもCMを多く入れられるためで、これは業界の自主規制を逆手にとったものである。今度は、その54分を視聴率のために狙い撃ちしていることになる。「視聴率三冠王」もそうだが、自ら言い出したことにからめ取られてしまうとは、テレビ局もご苦労なことで……。


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▽『続「超」整理法・時間編』――今度は、時間を「超整理」する



野口悠紀雄『続「超」整理法・時間編』(中公新書)



 「整理は分類である」という既成概念を打破し、時間軸による検索を紹介した『「超」整理法』の続編。前著同様に「ノウハウは、人間の怠慢さに寛容なものでなければならない」という基本方針で基づいて著者自らが生み出したノウハウが紹介される。

 前著では、何でもかんでも二号サイズの封筒に入れて並べるだけで、机の上がキレイになるという「押し出しファイリング」などが紹介されたが、今回紹介されるのは、時間の管理法。仕事に追われるサラリーマンには、また新しい福音の書が現れた、と言えば言い過ぎか。

 詳しいノウハウについては、本書をご覧いただくとして、第四章「組織内コミュニケーション革命」では、日本の会社における仕事の進め方の問題点を指摘している。

 「文書ー建て前、口頭ー本音」という不透明な日本型組織運営は、もはや時代の要請にあわなくなりつつあるようだ。革新性や創造力を要求される時代には、異質なメンバーの交流によって新しいアイデアを生み出すことが重要であり、そのためにはコミュニケーションを文書で行うことが必要である、と著者はいう。日常的連絡事務も文書で行うことを提案しているが、この方式の便利さに気がつかない上司は、「もともとホープレスなのである」と手厳しい。

 このほかにも、「会議を見直す」など示唆に富んでいる。 


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▽『昭和恐慌と経済政策』




中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学芸文庫)



 バブル崩壊、不良債権の増加、そして大震災。

 「歴史は繰り返す」というがなんだか、昭和恐慌前夜の状況に似てきたとはいえまいか。

 1923年の関東大震災のおり、政府は震災地振り出しの手形の支払いを一時延期した。その後、この手形を日銀が再割引をすることで経済界を救済した。再割引をした四億四〇〇〇万円の手形の半分は決済されたが、なお二億円強の手形が残った。このうち九二〇〇万円が、経営の悪化していた鈴木商店関係の手形であった。また、鈴木商店と関係の深い台湾銀行は一億円の震災手形を保有していた。

 金解禁を目指し、震災手形の整理をしようとした政府は、公債を発行して穴埋めすることを考えた。しかし、この「震災手形法案」は、野党の攻撃の対象となり「震災手形発行者とその所有者を公表しろ」という声が上がった。そうこうするうち「渡辺銀行が破綻した」という片岡蔵相の失言が引き金となり銀行への取り付けが頻発した。

 結局、震災手形法案は通過したものの、鈴木商店倒産への懸念から、台湾銀行へコール資金の回収が殺到した。政府は、日銀に台湾銀行への新たな貸し付けを行わせようとしたが、不調に終わり、当時の若槻内閣は総辞職。台湾銀行は営業停止、多くの銀行は取り付けに会い、金融恐慌はピークに達した。

 次の内閣の高橋蔵相は、三週間の支払い猶予を実施、日銀と台湾銀行には合計七億円の損失保障を行った――。


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1995.01.10

▽『終身雇用』――「終身雇用」は幻想か 諸外国の実態も紹介

野村正實『終身雇用』(岩波書店)



 先日、学生時代のゼミの友人の結婚式があった。世界的に名の通った電機メーカーに勤める彼の、その上司が挨拶にたった。「常日頃から、色々なことに興味を持つようにと言っております。他に良い仕事があるならば、そちらに移ってもらっても構わないと思っています……」

 冗談めかして言ってはいたものの、半分は本気だったのだろう。雇用調整に脅える世代の「親心」が、そう言わせたのかも知れない。少なくとも、若い世代にとっても、「何となく終身雇用だと思っていた」というのが、通用しない時代になったのは間違いない。

 長引く不況の中、日本企業に特有な雇用関係の見直しが迫られている。終身雇用、年功序列型賃金、企業別組合が「日本的経営の三種の神器」といわれてきた。本書において著者は、日本企業の雇用関係の歴史と現状を丹念に検証した上で、「日本企業の雇用慣行は終身雇用である」という命題が誤りであることを指摘する。

 そもそも、「終身雇用」とは、大企業に就職した労働者の一部が定年まで勤続する、という現象をさした言葉に過ぎない。しかし、この「終身雇用」という言葉はマスコミなどを通じて一人歩きし、「日本企業は終身雇用である」と一般に信じられるようになってしまった。この事実に気が付いたのか、最近のマスコミでは、定年まで一つの企業に勤め続ける人の割合は二割に満たない、という労働省の調査をあげて「もともと終身雇用は幻想であった」と主張することが多くなっている。

 しかし、「終身雇用は価値観と結びついている」という著者の指摘は、きわめて重要な意味をもっている。

 「終身雇用が価値観である、ということは立派な会社の雇用慣行は終身雇用であるべきである、というにとどまらず、すぐれた社員は終身雇用されるべきである、ということも含意されている」そして、「真に中核的な従業員が終身雇用である限り、価値命題としての終身雇用は維持されていることになる」。真に中核的な従業員がごく少数になった時に初めて、終身雇用という観念は消滅する、という。

 これまでの日本企業においては、多くの従業員が、「幻想としての終身雇用」を信じていたために、社会的な力を持つようになっていた。「終身雇用は、制度・慣行としては存在していないが、社会的な規範としては存在している」ことになる。しかし、社会的な規範としての終身雇用は、人員整理を排除するものではない。日本において問題となるのは、人員整理の基準に関し、社会的合意が形成されておらず、企業の恣意的判断に委ねられている点である。

 本書の第五章では、ドイツ、アメリカ、スウェーデンにおける人員整理の例が紹介されている。この三国に共通するのは、労使協定や社会的な合意により、人員整理の際、より年齢が高く、勤続年数が長く、家族を支える義務のある従業員が社内に残る、という原則が確立されている点である。そして、この点に関し、日本の労働組合は、積極的な役割をはたしてこなかった。

 現在、中高年の人員整理が現実のものとなっている。この過程で、どういった基準が確立されるべきか、もっと議論されるべきだろう。

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▽『人間交差点』



『人間交差点』(原作:矢島正雄、作画:弘兼憲史、小学館文庫)



 最近、書店などで、漫画の文庫版が目に付くようになってきた。手塚治の全集あたりが、先鞭を付けたのだろうが、出版社にとっても、持てる資産の有効活用という面があるのだろう。バブルの頃には、漫画の豪華版の出版が話題となったこともあった。時代の移り変わりが感じられて興味深い。

 さて、その漫画文庫に、知る人ぞ知る名作が加わった。『人間交差点』が、それだ。80年から89年にかけて、青年向けのコミック誌に連載された、一回読み切り形式の人間ドラマである。ストーリーは脚本家の矢島正雄が担当し、漫画を『課長 島耕作』であてる前の弘兼憲史が担当している。

 オムニバス形式の、それぞれの話に登場する人物たちは、いずれも人間の「業」に翻弄されながら生きている。

 コメディアンのラサール石井が巻末で述べている。「人間の暗部を描きながらもその奥に微かに光る温かい心を巧みに描いており、読み終わった後には必ず爽やかな感動がある」と。

 「暗い、重い、クサイ」の三拍子そろったような漫画だが、何とも言えない魅力がある。ハッピーエンドにならず、悲劇的な結末を迎えることの多い初期の話の方が、作者の「罪深き人間達」への優しい眼差しを感じることができるだろう。

 ここらあたり、殺されて海に捨てられた人間の過去を、これでもかと暴きたてる昨今のマスコミ関係者に、是非とも学んで欲しい点である。


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▽黄金の読書――『ノーサイド』1994年12月号



 『ノーサイド』といえば、中高年を対象とした月刊誌。その12月号で「すべての本好きと、元・本好きに捧げる」と銘打った、読書に関する特集を行っている。

 フランス文学者の鹿島茂氏が、「文学全集の活用術」を提案している。昭和三〇年代から四〇年代にかけて、日本のほとんどの家庭には、文学全集が置かれていた。それが今や、家庭内の無用の長物と化し、古本屋にいたっては、「タダでも引き取らない」有り様だ。

 鹿島氏によれば、「教養や人格形成の手段として『文学全集』を編んだ国は世界でも日本しかない」という。外国では教養を身につけるために、文学作品を読む若者などはいない、という。

 「そもそも、こんな高級な大人の文学を、十七、八の若僧が読んでわかるわけがないではないか。元来、古典というのは、ありとあらゆる人生経験を積んだ大人が対等の読者に語りかけたものだからこそ後生に残ったのである」

 鹿島氏は、ゴミ寸前の文学全集を解体し、自分の好みのテーマに沿って編集し直すことを提案している。たとえば、自分の好きな都市を描いた作品だけを集め、自分だけの「パリ全集」や「ロンドン全集」を作る。パリやロンドンを旅した後は、これで思い出に浸る。「親子」、「裁判」といったテーマで全集を作っても面白いかもしれない。

もはや文学全集が格安で手に入る時代である。「老後の楽しみは、もうこれでほとんど決まり」と結んでいる。


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▽「四十にして惑わず」――不惑を迎える「五五年体制」を考える




 子曰く、
 吾十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。
 四十にして惑わず。

 1995年に「不惑」を迎えるものに、いわゆる「五五年体制」がある。

 新しい選挙制度の区割り法案も可決され、またぞろ選挙風が吹き始めている。それも猛烈な勢いで。新々党の旗揚げに続いて、社会党の分裂も予想され、「五五年体制」は、すでに過去のものとなったのだろうか。

 『日本の論点 ’95』(文芸春秋社刊)において、立花隆氏は、五五年体制を「政財官の癒着構造」とみなし、「政治の上部構造がいかに変わろうとも、官僚制という下部構造が変らなければ、本質的な変化は何も起こらない」と指摘する。

 文芸春秋社が『日本の論点』の第一弾を刊行したのが92年末のこと。そして、『朝日ジャーナル』が休刊したのも、同じ年の5月である。言論界における問題提起の主役が、左から右へ移ったことを象徴しているともいえる。朝日ジャーナルの主な記事を集めた『朝日ジャーナルの時代』(朝日新聞社刊)は、言論界における「五五年体制」の記録でもある。「右手に朝ジャ」を持ったことのない人も、「あの時代」を振り返ってみるのもいいかもしれない。

 日本人ほど日本人論が好きな国民はいない、とはしばしば言われることである。『日本人論』(南博著、岩波書店)は、明治期以降の主要な日本人論が網羅的に紹介されており、「日本人の自意識」の移り変わりがよく分かる。日本社会論の系譜としても読むことができる。

 また「戦後強くなったのは、女性と靴下」とも、よく言われる。しかし、国際的にみれば日本で一番強くなったのは、やはり「円」。『円の総決算』(三國陽夫著、講談社)は、日本経済の抱える歴史的な問題点を指摘する。先行き不透明な日本経済を考える上での示唆も多い。

 ご存じの方も多いだろうが、冒頭の「四十にして惑わず」の続きは次のようになる。

 五十にして天命を知る。
 六十にして耳順う。
 七十にして心の欲する所に従へども矩をこえず。

日本型資本主義は、しばしば「儒教的」と言われるが、はたして本当にそうだろうか。青土社が刊行した「シリーズ世界の宗教」は、宗教の入門書として世界的評価の高いファクツ・オン・ファイル社版を翻訳したもの。この中の一冊『儒教』を読んで、自らの内なる儒教的精神を確認してみるのもいいだろう。

 四〇歳を過ぎても「不惑」といかず、まだまだ迷い多き中年の方々には、目黒考二著『中年授業』(角川書店)がお薦め。『本の雑誌』編集長を務める著者が、テーマ別に本を紹介しながら「奥ゆかしき中年」について語っていく。思わずニヤリとさせられる。


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1994.12.10

▽週刊図書館『全共闘白書』――『週刊朝日』10月28日号



 書評で書評を紹介するというのも、おかしな話だが、ご許し願いたい。

 週刊朝日の書評欄「週刊図書館」において、書家の石川九楊氏が、『全共闘白書』(新潮社刊)の書評を行っている。同書は、全共闘運動体験者へのアンケートの回答集である。

 体験者の半数以上が、「また参加したい」と思う全共闘運動は、暗く、重く、にがいものであるはずの反体制運動のなかではきわめて異質な運動である、といえるだろう。

 石川氏は「学生運動は敗北したが、全共闘運動は勝利した」という。

 全共闘運動は、「超高度資本主義に追いつき、違和感なく生きるための自己変革運動であり、勝利は約束されていた。超高度資本主義を猜疑し、突入を躊躇していた人間と文化をせん滅し、来るべき時代への地ならしをし、風通しのよい広々とした空間をつくり上げた」にすぎないという。そして、「その上に、七〇年代~九〇年代の不毛な文化は花開いた」

 すでに社会の中枢を占め、加害者の立場に押し出されながらも、その自覚が全くなく、「仕事に満足せず」「年収が少ない」と考える全共闘世代。

 「国家にはどこまでも寄生して、不満を言い、政治青年顔をして、超高度資本主義、高福祉社会での消費戦士として一生を終えるつもりらしい」

 石川氏は、「『穀潰し』になってまで生きることはない、程度の覚悟をもって」と締めくくっている。


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▽『官僚』――エピソードで綴る日本の官僚の実態



『官僚―軋む巨大権力』(日本経済新聞社)



 本書は、1993年11月から1994年7月にかけて、日本経済新聞紙上に連載されたシリーズ企画「官僚」を一冊にまとめたものである。この企画は、今年度の新聞協会賞を受賞している。

 新聞に掲載された記事をまとめたため、全体としてまとまりにかけるきらいがあるが、総論よりもエピソード重視に徹しており、日本の官僚の実態がよく分かる。

 最近話題のJT株の公開に関する部分を引用すると、「日本証券業協会会長の新谷勝は記者会見で、日本たばこ産業(JT)株上場の時期について『東証の一日の売買高が、三億五千万株以上にならなければ……』と慎重論を展開した。この弱気発言に大蔵省の担当官は微妙に反応、『手足を縛る発言はいかがなものですかね』と証券関係者につぶやいた」

 官僚は、自分たちのシナリオを一旦作ってしまうと、それに固執し簡単には変えようとしない。そのシナリオが間違っていたとしても非を認める訳でもなく、まことしやかに次のシナリオを用意する。

 昨年の連立政権の成立により、永らく続いた自民党の一党支配は、一応の区切りをつけた。また、バブル経済の崩壊とともに吹き出した様々なスキャンダルによって、経済界もこれまでのやり方に対する反省を迫られている。「鉄の三角形」と言われてきた「政・官・財」の癒着構造のうち、政と財が変わりつつあるとすれば、残る官も変わらざるをえない、というのが大方の見方だろう。

 これまでの日本は、「政治家は駄目だが、官僚は優秀」とさかんに喧伝されてきた。しかし、いつのまにか、官僚の融通のなさ、省益の維持に汲々とする姿が、クローズアップされるようになってしまった。あまつさえ、「政治家のリーダーシップ」とやらが、求められるようにさえなってしまった。

 しかし、政治改革が選挙制度改革にすり変わるなど、依然として自浄能力を発揮できない政治家に、本当に期待する人がどれだけいるのだろうか。

 政治改革、行政改革といった、理性に訴えるようなやり方は、もはや通用しないのだろうか。本当にヤバイ状況になった時に、何らかの危機バネがうまく働いてくれることを期待するしかないのだろうか。

 日本経済の地盤沈下に対し、新聞はじめ多くのマスコミは、新規産業の育成や、そのための規制緩和を唱えている。そして、あまりにも規制の多いことの原因が、日本の官僚システムにあると非難している。

 それはそれで間違いのないことだろうが、批判するマスコミの側も自分たちの足下を見直す時期に来ているはずだ。新規参入や新規事業を阻むシステムは、マスコミにおいても温存されている。

 たとえば新聞で言えば、「記者クラブ」の問題。出版界では「再販価格維持制度」。あるいは、先行者の既得権益保護を優先する「取次システム」の問題。放送界でいえば「免許の自由化」が上げられるだろう。これらの問題について、マスコミの側が積極的に取り上げたことがあっただろうか。

 既得権益の保持に汲々としているのは、官僚だけではなくマスコミも同様である。総懺悔の時代は、いつになったらくるのだろうか。


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▽『大恐慌の謎の経済学』



関岡正弘『大恐慌の謎の経済学』(ダイヤモンド社)



 瀬木太郎のペンネームで『石油を支配する者』(岩波新書)などを執筆してきた著者が、関岡正弘の本名で上梓した、大恐慌の研究書。

 1987年10月19日に起きた株式大暴落(ブラックマンデー)が、大恐慌の前兆ではないか、という議論が当時あった。

 本書では、1929年大恐慌についての様々な学説が検討されている。そして29年10月25日の株式大暴落(ブラックチューズデー)が、その発端であったという結論にいたる。

 「1929年の十月以降十二月までに自動車の工場出荷指数が四五%も減ったこと、そして29年第四・四半期には、第三・四半期に比較して消費支出が九億?以上減った」「巨大なキャピタル・ロスの発生(キャピタル・ゲインの消滅を含め)により、人々は耐久消費財の支出を切り詰めたのだ」

 消費の減少はただちに投資の減少へ跳ね返り、それが大恐慌の原因だった、と指摘する。80年代の日本の場合は、個人投資家ではなく、機関投資家が投機の主役だったために、ブラックマンデーを乗り越えて投機を拡大させる結果となった。

 本書が出版された89年は、まだバブル経済の余韻が残っている頃であり、本書への評価も「キャピタル・ロスの消費への悪影響を過大視している」(松本和男)など厳しいものが多かった。しかし、バブル崩壊後に突入した大不況をみれば、本書はもっと評価されても良かったといえるだろう。


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1994.11.10

▽『イトマン・住銀事件』



『ドキュメント イトマン・住銀事件』(日本経済新聞社)



 日本経済新聞の特別取材班による、「イトマン・住銀事件」のドキュメント。

 90年5月の報道を発端とするイトマン事件の特徴は、マスコミがイトマンに注目しているさなかに、イトマンと許永中の間で不正な絵画取引が行われるなど、事件が同時進行で進んでいった点にある。この絵画取引は、絵画を担保とした融資に切り替えられたものの、許永中は資金繰りに窮し、91年4月に不渡りを出す。これを機に、大阪地検の強制捜査が開始された。

 本書は、この直後に出版されたものであり、事件全体の整理ができておらず解りにくい点が多い。しかし、そのことがあらぬ効果を生み出し、かえって当時の異様な熱気が伝わってくる。

 イトマン事件の報道では、日本経済新聞社のような、資本主義に寛容なはずのメディアがリードした。それほどまでに、資本主義の根幹を揺るがす事件であったといえるだろう。

 先頃起きた、住友銀行名古屋支店長殺害事件が、イトマン事件と関係があったとは言い切れない。しかし、「向こう傷は問わない」と称される磯田イズムが、全く無関係だったとは言えまい。

 すでに、磯田一郎は昨年死去しているが、死して今なお住友銀行を苦しめ続ける「磯田イズム」とは、一体何だったのか。そして、第二第三の磯田一郎が現れた時、それが事件となる前に批判しうる言葉を、“経済”ジャーナリズムは持つことが出来るのだろうか。


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▽ナンシー関の見方――『鳩よ!』1994年10月号



 かつては、マイナーな雑誌でしか、お目にかかれなかったナンシー関も、「週刊文春」などでコラムを持つようになり、メジャーな存在になってしまった。

 短い文章に、消しゴム版画の似顔絵を組み合わせ、テレビ番組や芸能人を批評する、という独自のスタイルを築いてしまったが、恐るべき手先の器用さに加えて、その秀逸な文章は、もはや誰も真似できない境地に達してしまっている。

 このロングインタビューは、ナンシー関の、誰も知らない過去に初めて踏み込んだ企画と言えるだろう。驚くべき事に、消しゴム版画の手法は高校時代に独学でマスターしていたといい、また、文章に関しても特に修行した経験もないという。

 また、ナンシー関流のテレビの見方も紹介されている。ビデオ四台を駆使して一日中ウォッチしている様は、もはや圧巻としかいうほかはない。

 ナンシー関のことを、テレビを一日中見て、人の悪口を書いているだけ、と思ったら大間違いである。

 最近の週刊誌でよく見かけられる「天下の暴論」シリーズを、ナンシー関は『達人の論争術』(別冊宝島EX)で分析している。ナンシー関にも「天下の暴論」シリーズの発注はくるというが、これに対しては、「嫌悪を、ちゃんとした言葉になるまで熟成する見通しが立たずに、お断りするというのが多い」と述べている。

 並の物書きが、吐ける言葉じゃないことだけはお分かりいただけるだろう。


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▽『中年なじみ』――会社人間の半生を問い直すミドル達の生き様



野田正彰『中年なじみ』(ダイヤモンド社)



 『週刊ダイヤモンド』に連載中の「ミドルの履歴書」をまとめたもの。著者の野田正彰氏は、京都造形芸術大学教授であり、これまでにも『コンピュータ新人類の発見』『喪の途上にて』などで数々のノンフィクション賞を受賞している。野田氏の専攻は文化精神医学であり、サラリーマンのメンタルな部分に照準を合わせた著作も数多い。

 本書の書名である『中年なじみ』とは、「中年に達したサラリーマンが機能的なビジネスの付き合いだけでなく、子供のころまでの人格的な付き合いをもう一度取り戻したいと思っている。その心情を名付けたものである」という。

 その動きは、地域活動、ボランティア、研究会、家族との関係の見直しといったように人それぞれだが、会社人間として生きてきたサラリーマンが、自分の人生の意味を問い直そうとするところから、始まっている。

 「団塊の世代が中年に達し、中年の問題が、大きくなろうとしている。バブル期、当時五十歳代後半から六十歳代の経営者たちによって踊らされた四十歳代前半の男たちが、ながびく不況のなかで、雇用リストラ(再調整)の対象にされている」

 今回の不況を表現するならば、個人的には「団塊世代不況」といえるのではないか、と思っている、バブル期に、各企業の営業の一線に立っていたのが団塊世代なら、バブル崩壊後のリストラの対象になるのも、団塊世代といえるだろう。一年ほど前に、製造業各社で五〇歳代のホワイトカラーの首切りが話題となったが、あれで終わりだとは考えにくい。むしろ、いずれ来る、団塊世代を対象とするリストラの伏線であると見るのが自然だろう。問題は、それをどうみるか、である。

 すでに一年以上前から動きがあったはずの「金融空洞化」が、今年の6月頃から、にわかにマスコミで騒がれ始めるようになった。そこで、繰り広げられる「日本は駄目だ」キャンペーン。金融関係者も、苦悶の表情を浮かべながら「シンガポール、香港をみならわなければ」と語る。

 かつて、高度成長の時代には、戦争に生き残った昭和一ケタ世代が、「日本は駄目だ。アメリカを見習わなければ」と言いながら、歯を食いしばって頑張ってきた。そのアメリカが、シンガポールや香港に置き換わったものの、今度は誰が歯を食いしばってくれるのかが、見えてこない。

 団塊世代が、無責任な経営者の犠牲となっていく惨状をみれば、その下の世代が「滅私奉公」に疑問を持つのは、簡単な道理である。また、日本経済を実質的に支えてきた製造業、特に下請けの中小企業が全く遇されない経済構造をみれば、誰もそこへ行かなくなるのも当然だろう。

 女性雇用の問題もある。今年の就職戦線は、特に女子大生にとって厳しいものであった。男女平等の教育を受けてきたはずの女性達が、社会の入り口で選別される。「男女平等だったはずなのに」という思いがついて回るのも、また当然である。


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1994.10.10

▽「ワープロと日本語」――日本語と漢字をめぐる悪戦苦闘



 前略
 この度、わたしも時代に遅れ茶如何と思ってワープロヲ キノキキ 失敗。

 パスティーシュ(模倣小説)の鬼才・清水義範による『ワープロ爺さん』(講談社刊『永遠のジャック&ベティ』所収)の冒頭である。このまま延々と変換ミスが続くのだが、なんとなく読めてしまうのが面白い。

 『私のワープロ考』(安原顕編、メタローグ)は、ワープロを使っている文筆家のワープロ考を集めている。圧倒的に多いのが「モノ書き専用のワープロを作ってほしい」という要望だ。無駄な機能を省き、文書の容量を大きくする、そしてワープロの辞書を修正して欲しい、というものだ。

 『電脳辞書の国語学』(箭内敏夫、おうふう)では、パソコン用ワープロソフトの辞書を徹底検証している。業界内には少なからずインパクトを与えたようで、「一太郎」で有名なジャストシステムは辞書を監修する委員会を設立している。

 そもそも、これぞというワープロの辞書が作れないのは、日本語特有の表記に問題がある。「悪魔の文字と戦った人々」という副題の付けられた『日本語大辞典』(紀田順一郎、ジャストシステム)は、この日本語を克服しようとした人たちの苦闘が綴られている。漢字をやめて仮名にだけにすべしという「仮名文字論」、いやすべてローマ字にすべきだという「ローマ字論」、新しい文字を作ってしまおうという「新国字」運動、志賀直哉にいたっては「フランス語を国語にせよ」という主張さえしている。

 ワープロという便利なモノができたおかげで、日本語データベースは、はるかに進歩した。同時にワープロを日本語だけでなく外国語にまで使いたいと考えるようになるのも当然だろう。『電脳外国語大学』(三上吉彦他編著、技術評論社)は、外国語のワープロソフトを使用するうえでの悪戦苦闘ぶりを紹介している。こうした電脳界の他言語化を促進するために、Unicodeなるものが考案されている。これを使えば多国語対応ソフトが簡単に作成できるため、米国マイクロソフト社などが熱心に進めている。

 しかし、このUnicodeにも何かと問題があると、『電脳激動』(坂村健著、日刊工業新聞社)は指摘する。中国、台湾、日本の漢字は同じ字でも微妙に形が異なるため、別々のコードをふらざるをえない。また、これまで使用してきた日本独自の漢字コードが使えなくなり、過去の文書データを使用するのに莫大なコストがかかってしまう。いずれ日本もUnicode使用を迫られるだろうが、この問題に関して日本はもっと提案や発言をすべきである。

 「漢字という絵文字を使うのは文化程度が低いからだ」「日本の人は漢字を使っているから中国人である」。こうした誤解を解くためにも、日本はもっと国際貢献が必要だろう。


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▽『良い円高 悪い円高』――現在進行中の円高を分析するポレミカルな日本経済論考



リチャード・クー『良い円高 悪い円高』(東洋経済新報社)



 売れている経済書、ということで、リチャード・クー氏の『良い円高 悪い円高』。

 クー氏によると、円高には「巨額の経常収支の黒字があるなかで輸入を増やし、既に巨額になっている輸出に輸入が追いつく形で不均衡が是正される」良い円高と、「輸入障壁や商慣習の違いから、なかなか増えない輸入に対して、輸出が減る形で不均衡が是正される」悪い円高の、二つの種類があるという。 現在進行中の円高は「悪い円高」であり、その結果、将来性のある輸出産業を縮小か撤退に追い込む一方で、国内には輸入障壁に守られた将来性のない企業・産業ばかりが残される、と指摘する。

 クー氏は日本の市場開放、規制緩和を主張している。これは現在なされている議論と結論は同じである。本書がポレミカルである点は、今回の円高の性質と原因の分析に求められる。

 ある国の輸出産業が、輸出競争力をもち外貨を稼ぐようになると、国内での支払いのために外貨を自国通貨に代える必要に迫られる。その際、為替市場にはそれに見合うだけの外貨の買い手(輸入産業)が存在しなければならない。もしそうでなければ、外貨は自国通貨に対し安くしなければ買い手がつかなくなってしまう(自国通貨は外貨に対して高くなる)。その結果、その輸出産業は、自国通貨の高騰により壊滅的な打撃を受けることになる。日本では、貿易黒字が騒がれるようになって以来、この状態が続いてきた。

 しかし、80年の外為法改正による対外投資の自由化によって、日本の機関投資家は外債投資に殺到した。この結果生じた、外貨需要の急増によって、80年代は、膨大な経常黒字にもかかわらず比較的円安となり、日本の輸出産業は、息をつくことができた。

 ところで、日本の対外投資が円建てで利益を出すには、その国の通貨が円に対し中長期的に上昇する必要があり、そのためには、その国が対日輸出を増やし、対日貿易を改善させる必要がある。しかし日本の市場開放は一向にすすまないため、貿易不均衡も解消せずこうした国の通貨は対円で下落してきた。

 日本の機関投資家が外国通貨を買っているうちは、輸出産業の外貨売りを吸収することができたが、90年代の株価暴落によって、外債どころではなくなってしまった。機関投資家という外貨の買い手がいなくなったた結果が、今回の円高である。これが第一章の主張である。

 第二章は円高を放置する官僚批判、第三章は金融と土地の政策批判、第四章は日本株式会社批判と続く。難しい内容を噛み砕いて分かりやすく伝えようとする姿勢に好感がもてる。ぜひご一読を。 


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▽『たけし!』



 『たけし!』(講談社)は、「俺の毒ガス半生記」と銘打ったビートたけしの自伝的半生記。本書が発行された1981年11月と言えば、ちょうど前年に始まった漫才ブームが一息ついた頃。人気先行型の漫才コンビが落ち目になっていく中で、ビートたけしのセンスが注目され始めた時期でもある。

 とはいえ、まだまだ、ビートたけしは単なるコメディアンにすぎず、エッセイスト、小説家、映画監督といった多彩な才能を開花させるのは、このずっと後のことである。

 しかし、8月に起こしたバイク事故をめぐる報道を見ると、いつからこの人はこれほどまでに愛される人物になったのだろうか、と思ってしまう。本書での悪役ぶりが、懐かしくさえ感じてしまう。

 ところで「男の顔は履歴書」という言葉があるが、この人ほど顔つきが変わった人もいないだろう。そのきっかけは、やはりあの「フライデー襲撃事件」。タレント生命を失う覚悟もあったと後に語っている。

 「写真誌による報道→襲撃事件」という図式から、「アイドルタレントとのスキャンダル→無謀なバイク事故」と、最近起きた出来事をつなげて見てしまうのは私だけだろうか。しかも、今回は別の意味で顔つきが変わってしまうかもしれないのだ。

 「いつでも三畳間の生活に戻れるね。これだけは自信ある。いつだって自分の人生をやり直せるよ」

 それを許さないのが、テレビ局の都合ということだろうか。


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▽電脳浄土放浪記――『現代』1994年9月号



 水俣病を題材にした『下々戦記』で大宅壮一賞を受賞したノンフィクション作家、吉田司による電脳世界のルポルタージュ。シリーズ第一回目は、ようやく電脳世界の入り口にたったところ、というべきか。

 言うまでもないことだろうが「浄土」とは仏教用語。人間が永遠に苦しみ続ける「輪廻」の世界を抜け出たところに存在するとされている。

 幕張新都心にあるビルを訪れた吉田は「電脳浄土」という言葉を想起する。ハイテクビルの中に入れば「世界の先端人」だが、一度ビルの外にでれば、単なる「通勤地獄人」へと転落する。それは、あたかも「電子が人間の身分差や生活の汚れを浄化し始めている、と言っても良かった」光景だ。

 第一回目のサブタイトル「万国の機械よ、団結せよ!」は、もちろん、あの有名なスローガンをもじったものだが、一世紀前には、それは「機械に自分の体臭をなすりつけ、機械を人間が呪縛する」運動だった。

 しかし、機械のスピードにうまく乗ったものが勝利を収め、機械の言葉を知らないものは脱落するスピード・ゲームの時代を迎えると、今度は、「人間の方が“機械の体臭”を自分になすりつけ」るようになる。

 吉田の言うように「電脳主義の勝利」や「電子大国による世界の再分割」が不可避なものとするならば、その流れをより良い方向へと修正しうるものとは、一体何なのだろうか。今回の放浪記で、そこまでたどり着いてくれることを期待する。


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1994.09.10

▽『官公庁のカタカナ語辞典』――使いやすく使いがいのある辞書



下河辺淳監修『官公庁のカタカナ語辞典』(三省堂)



「早速調べて善処する」――これは?やりません″を意味するときのお役所用語である。最近では、耳になじみのないカタカナ語が官庁文書にも頻出するようになっている。その中には本来の外国語だけでなく、日本特有の合成外国語、和製英語も多く、外国語通でも何のことかわからない場合もしばしばである。

 本書には、各種の白書などで使われているカタカナ語やアルファベット略語一万三〇〇〇項目が収録されており、カタカナ語の意味・使い方、元の外国語、合成語の組成が非常にわかりやすく説明されている。さらに、通商自書、経済白書等々、どの文書に出てくるのか、その使用例も示されている。

 また、漢字カタカナまじり、数字カタカナまじり等、他の辞書類では引けない見出しも多数入っている。

 和製英語のアイ・メイト(盲導犬、eye mate)は、アメリカではguide dogだが、何となく和製英語のほうがピッタリくるかもしれない。ただ、エコ・マーク(エコロジー・マークを略した和製英語)、エコシティー、エコスクール、エコポリス計画、エコ・アジア21プラン、シルバー・コロンビア計画、シルバー・マーク制度等々となると少々やりすぎの感を受ける。

 それだけに本書が生まれる必然性があったとも言える。あると便利だが、早くなくなったほうがいいものの一つに数えられるだろう。


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▽『PANJA』



 JAPANをひっくり返してPANJA。『週刊SPA』が好調の扶桑社が、6月に新創刊した月刊誌。編集長は、『週刊SPA』を、カルチャー誌として定着させた渡辺直樹氏。

 一方、文芸春秋の『マルコポーロ』は、『PANJA』の一週刊前に、リニューアル第一号が発売された。こちらは『週間文春』を躍進させた、花田紀凱編集長。刷り部数に違いが有るため簡単には比較できないが、書店にうず高く積まれた『マルコポーロ』と、残りがわずかの『PANJA』とを比べれば、勝負あったという印象を受ける。

 どちらも、週刊誌のスタッフを、かなり引っ張ってきたために、週刊誌との間で冷戦状態になっているという。週刊誌の手法を、そのまま月刊誌に持ち込んだ感じだが、それが月刊誌の性質にあっていたかどうかで明暗を分けたようだ。テーマ主義のPANJAに対して、ジャーナリスティックなマルコポーロはちと分が悪い。

宝島社の『宝島30』も、6月号からリニューアルしている。天皇家批判で右翼から銃弾を打ち込まれるなど、言論誌としての一面を持ち合わせていたが、リニューアル後は、『別冊宝島』的なテーマ主義に切り替えてしまった。売れ行きは好調だというが、『別冊宝島』と同じようなネタが多くなってしまった。

 出版社が利益を追求するのはかまわないが、週刊誌そのままの月刊誌を作ったり、同じネタの使い回しをしたり、読者を馬鹿にしていると、いつか痛い目にあうのではないか。


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▽『寄生獣』――90年代を代表する傑作エンターテイメント



岩明均『寄生獣』(講談社)



 「寄生獣」は、かなり早い段階からマニアの間で高い評価を受けていた漫画である。マイナー月刊誌に連載されているため話題になりにくかったが、それでも単行本は増刷を重ねている。

 ある日、寄生生物の胞子が、空から大量に降ってくる。それらは、人間の脳に寄生し、その体を乗っ取ってしまう。主人公の高校生だけは、寄生生物が入り込む際に失敗し、右腕が寄生生物、それ以外は人間という共生体になってしまう。人間を乗っ取った寄生生物は、人間を主食としながら、地球の支配を進めていく。例外的に共生体となった主人公は、寄生生物の異端として追われるようになる。

 種の闘争といったSF的テーマが、日常の描写の中に巧みに織り込まれている。生きるために本能だけで行動する寄生生物と、感情に左右される人間との、心理描写の対比も秀逸である。

 エンターテイメント性を保ちながら、思想性すら感じさせる漫画としては、80年代には宮崎駿、大友克洋、諸星大二郎らの作品があった。連載中のため今後の展開如何だが、「寄生獣」は90年代を代表する作品足り得るのではないだろうか。

 岩明均、小林よしのりに加えてもう一人90年代の漫画家をあげるとすれば、山本直樹かもしれない。「夏の思い出」(太田出版、九五〇円)の表題作では、理性の欲望に対する勝利を予定調和として描くことで、エロスの本質を暴いてみせている。

▽山本直樹『夏の思い出』(太田出版)


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▽『風の谷のナウシカ』――一三年に渡る連載を終え、現代の吟遊詩人はどこへいく



宮崎駿『風の谷のナウシカ』(徳間書店)



 「宮崎アニメ」といえば、もはや一つのブランドだろう。公開中の映画「平成狸合戦」(企画・宮崎駿、監督・高畑勲)を見に行くような子供たちでさえ、宮崎駿の名前を知っている。夏休みに、子供をつれて見に行かれるお父さんも多いだろう。

 その宮崎駿の出世作ともいえるのが84年に公開された「風の谷のナウシカ」だ。その年の「キネマ旬報」読者選出ベストワンに選出されるなど高い評価を受けている。

 物語の舞台は、人類が「火の七日間」という最終戦争を起こしてから一〇〇〇年たった後の地球。有毒ガスを発生する「腐海」と呼ばれる菌類の森を避けながら、後退した文明水準の中で人類は生きながらえている。そんな中、世界を二分する二つの大勢力の間で戦争が勃発。ナウシカを始め風の谷の住人も戦争へと駆り出されていく。

 もともと、「風の谷のナウシカ」は、アニメ専門誌に連載されていた漫画であり、映画は、漫画の設定をベースに再構成されたものである。80年代に入り急速にエコロジーブームが盛り上がったこともあり、宮崎とナウシカは、エコロジーの旗手として持ち上げられることになった。しかし、漫画の方の「ナウシカ」は、映画公開後も連載が継続されていた。宮崎が途中、映画の製作を開始したこともあり、四度も中断されたが、この春ついに一三年間に渡る連載を終了した。

 映画におけるイメージのまま、“環境問題の戦士“としてナウシカを捉えた読者も多く、その後の漫画におけるストーリー展開や、ナウシカの持つ暴力性への批判も多かったという。しかし、「〆切に追いつめられて、書いてしまった事柄の意味が、ずっと後になって判った、なんていう経験を何度かしました」(よむ94年6月号)という漫画の方が、宮崎の作家としての本質に、より近いものとなっているのではないだろうか。

 四回目の連載中断に入ったのは映画「紅の豚」の製作を開始した91年だが、この頃には、すでに終わり方を模索していたという。「紅の豚」公開直前のインタビュー(アニメージュ92年8月号)で、宮崎は興味深い発言をしている。

 「80年代の未来観として、ある種の終末観があったと思うんです。日本がこのままどんどん大きくなって、ある日ドカーンとなにかがはじけて、文明が一挙に滅びたり、東京に再び関東大震災がきて、一面焼け野原になったりとか。それが現実にきたら、阿鼻叫喚、ひどい事になると思うけれども、どこかでみんなそうなったらせいせいするだろうなという、願望があったと思う。一種、終末観すら甘美だったんですよ。それが、90年代に入って(略)ソ連は崩壊し、民族紛争が激化して、またばかなことを一斉に始めたのを目撃し、日本経済のバブルが弾けたのを目の当たりに見てきた。そう潔い終末はこないなと感じるようになったんです。(略)台風がきて大水が出て、水が引いた後は見事に空は真っ青になって、台風一過、ピカピカという感じで台風もいいもんだなという風にはならない。台風が過ぎてもピカピカにならない。なにかそういうことが、多分これから起こると思います」

 「グチャグチャになりながら、それでも生きて行くしかない」という覚悟を、すでに宮崎はしているのだ、という。


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1994.07.10

▽『政治ジャーナリズムの罪と罰』――現役政治記者によるジャーナリズム批判




田勢康弘『政治ジャーナリズムの罪と罰』(新潮社)



 「惜敗率(せきはいりつ)」という言葉をご存じか。現在、区割り案を作成中の新しい選挙制度(小選挙区比例代表並立制)に導入される仕組み。

 新しい選挙制度では、小選挙区と全国一一のブロックに分けた比例区のどちらにも立候補(重複立候補)できる。そして、比例区(拘束名簿式)では、名簿搭載順位を同じにできるため、同順位の候補者のどちらを優先させるかを惜敗率できめることになる。

 惜敗率は、落選した候補者の得票が、当選者の得票数の何%を占めたかをはかるもので、負け方の度合いを測定するものである。たとえば、A、B、二人の候補者が各々小選挙区と比例区で立候補、比例区の名簿順位が二人とも一位とする。そして、小選挙区では二人とも落選、比例区では一人だけ当選という結果になった場合、惜敗率の高い候補者が比例区で当選、ということになる。

 これは、なにをもたらすか。

 小選挙区制の特徴として、しばしば指摘されることは、「候補者の勢力が、僅差の場合は激戦区となり、差が大きければ無風区となる」というもの。しかし一一ブロックに細分化された比例区に、惜敗率という制度が加わると、負け方(惜敗率)を問われる候補者が多数あらわれるのは言うまでもない。惜敗率を高めるには、自分の得票数を上げるか、当選者の得票数を下げるしかない。そこで、なにが行なわれるのか……。

 並立制から始まり、併用制、連用制と政治制度改革案は二転三転してきた。そして、社会党による参議院での否決、連立与党と自民党による妥協と目まぐるしく変わってきた。
 『政治ジャーナリズムの罪と罰』は、日本経済新聞の論説委員でもある現役の政治記者が、92年10月から94年1月まで月刊誌に連載したものをまとめたもの。新聞記者による、新聞における政治ジャーナリズム批判である。

 94年1月までの連載分であるために、1月末に起きた、選挙制度改革案の社会党による参議院での否決、そして連立与党と自民党による妥結など、は触れられていない。当然、この時点では、「惜敗率」の問題も生じていないが、その後の新聞、テレビなどで、この問題が語られたのを聞いたことがない。

 かつて湾岸戦争の時、「テレビは映像というイメージしか伝えられないが、新聞なら背景や分析を伝えられる」という議論がさかんになされたが、現在の新聞ジャーナリズムが、冷静な報道を行なってきているのか疑わしい。早朝のテレビ番組が、各紙を並べて映しだし、「この問題ついては各紙とも見方が分かれています」とやるのは、もはや当たり前。テレビの方が、冷めているとも言えるだろう。

 田勢氏の批判は、新聞を愛するがゆえ、ともいえる。しかし、現在の記者クラブや番記者といったものへの批判は、すでに何度も繰り返されてきたものだ。田勢氏は、「まともなジャーナリトを一人でも多く、育成すること」を主張するが、それが、できなかったために、現在の状況が生じてるのではなかったか。

「五五年体制の崩壊」が叫ばれる今、第四権力として五五年体制の一翼を担ってきた大新聞自らが変革をせまられていることへの視点が欠けているような気がしてならない。


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▽『私の外国語上達法』――外国語上達の秘訣を教える五〇のエッセイ



『私の外国語上達法』(安原顕編、リテレール・ブックス)



 『私の外国語上達法』は、雑誌感覚の単行本「リテレール・ブックス」シリーズの第二弾。翻訳家など外国語に携わる人々の外国語学習にまつわるエッセイ集である。エッセイ集としても楽しめるが、外国語を学ぼうとしている人には、是非ご一読をおすすめしたい。愛用の辞書も紹介されており役に立つ。

 さて、本書の編者”スーパーエディター”安原顕が巻末で吠えまくっている。

 「ぼく自身、『英語』は中学・高校・大学の第二語学(高校を五年やったため)計十年、高校の第二語学は「ドイツ語」(落第したので計四年)、よせばいいのに大学は仏文科に進み(一応、六年在学したので六年間)、これだけやったにもかかわらず、身についた外国語は一つもない。なぜか」

 無味乾燥でつまらぬ教科書の講読ばかりの授業では何十年やっても身につくはずはない。社会に出れば使うことなどないため、何のために勉強したのか呆れるくらい忘れてしまう。語学教師の馬鹿さ加減、文学・芸術的教養のなさ。「ABC」と「文法」から始める幼稚園並みの大学の講義。日常会話が話せる程度の帰国子女を珍重する馬鹿企業・・・。

 「結局のところ、一般人にとっての『語学』とは、本を読み、知識や情報をえるための道具でしかなく、その程度のことであれば、独習であっても辞書を引き引き読めば、おおよそのことは分かるものであり、何十年かけて教育しているつもりの日本の語学教育など、一日も早くやめにすべしと、ぼくは声を大にしていっておきたい」

 学校教育の無用ぶりを伝える本をもう一冊紹介しておこう。

 『外国語としての日本語』(佐々木瑞枝著、講談社現代新書六五〇円)がそれだ。外国人に日本語を教える日本語教師の立場から書かれている。



 本書によると、学校教育で教えられる国語文法(口語文法)とは、「古典文法」に合わせて作られたものだという。現代人にとって「古典」は外国語のようなものであり、国語文法は、古典文法を習うための導入部分のようなものだ。つまり、国語文法は、現在の話し言葉を分析して作られたものではない。

 確かに、学校教育で覚えさせられた国語文法の、たとえば動詞の活用(未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形)など、日頃は全く意識しないが、それは、日本語を話せる日本人にとって、文法など必要はないためだ。それでは、日本語をまったく知らない外国人に対する場合はどうなるか。

 「我々が習ってきた『国語文法』は、すでに日本語が理解できる『日本人』を相手にしてきただけに、大切な文法項目が抜け、とてもこれでは太刀打ちできない」

 日本語に即した日本語文法を、国語文法にかわるものとして提示している。先の動詞の活用の例としては、主に語尾の形に注目して、ますフォーム、辞書形、てフォーム、たフォーム、たらフォーム、たりフォーム、否定形、受け身形、使役形、意向形に分類する。

 外国人に説明するのなら、こちらの方がすっきりしているのは、言うまでもない。外国人に簡単な日本語を教える程度にすら役にたたない国語教育など、即刻やめにすべし、である。


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▽『マルコポーロ』――編集長変わって”一拍休み“



 「週刊文春」を国民的雑誌にまで引き上げた功労者が、花田紀凱前編集長であったことは、よく知られている。その花田氏は、この4月から若者向けビジュアル誌「マルコポーロ」の編集長に就任している。この「マルコポーロ」、4月発売号は5・6月合併号とし、5月発売分は休刊、花田新編集長によるリニューアルが進められている。

 「マルコポーロ」といえば、文芸春秋が91年に三誌創刊した雑誌のうちの一つ。このうち、すでに一誌が休刊、高齢者向けの「ノーサイド」も低迷を続けている。「マルコポーロ」も、実は二年前に一度、全面リニューアルを行っている。この時に編集長に就任したのが斉藤禎氏。硬派ジャーナリズム誌として創刊された同誌を、特集主義のカルチャー雑誌へと作り替えた。同誌の手法は、他の若者向け雑誌「エスクゥワイヤ」などにも影響を及ぼしてきた。

 しかし、業界内での評価はともかくとしても、部数低迷はいかんともし難った。 斉藤氏は、女性誌「クレア」を軌道に乗せた功労者でもあるが、その斉藤氏を更迭してまで行った人事だけに「マルコポーロ」がどうリニューアルされるかが注目される。この背景には、「花田氏でもダメなら・・」という判断があった、といわれている。

 花田氏は、かつて写真誌「エンマ」のデスクとして、日航機墜落事故現場の凄惨な写真をカラーで掲載したことがある。そのタカ派スキャンダル路線は、またしても読者に受け入れられることになるのだろうか。


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▽『団塊の世代』

堺屋太一『団塊の世代』(文春文庫)



 「団塊の世代」という言葉を流行語にした、堺屋太一による1976年発表の未来予測小説。

 戦後の1947年から49年に生まれた日本人は、その直前より二〇%、その直後より二六%も多い。この団塊世代の行く末を80年代半ばの電機メーカー、80年代末の自動車メーカー、90年代前半の都市銀行、90年代末の総理府を舞台に描いていく。

 80年代半ばからのバブル経済こそ、堺屋は予見できなかったものの、堺屋の指摘する問題は、バブル崩壊後の今、むしろ重くのしかかってきている。

 いずれのエピソードも、団塊世代の中でもずば抜けた昇進を遂げたエリートが主人公となっている。これは、83年から92年まで漫画雑誌に連載され、団塊世代の圧倒的な人気を博した『課長 島耕作』と似た設定となっている。

 ただし、『団塊の世代』の場合は、状況を伝えるためのテクニックとして、こうした設定が採用されているのであり、主人公には、関連会社への出向といった苦い結末が待ち受けている。特に、団塊世代が五〇歳を迎える第四話「民族の秋」は、もはや醜悪としか言いようがなく、『課長 島耕作』は、いずれ直面するであろう、こうした現実から目をそらせ、団塊世代を慰撫する役割しか果たしていなかったとさえいえる。

 「あの高度成長の時代、いやそれに続く七〇年代・八〇年代の、まだまだ日本に力があった頃を無為無策に過ごしてきたこと」の責任を、団塊世代だけに押しつけるのは酷だろうか。

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1994.06.10

▽日本会社原論?『危機の中の日本企業』――日本型経営に変貌を迫る新しい経済状況を検証する



 内橋克人、奥村宏、佐高信の激辛三人組の編集による「日本会社原論」六冊シリーズの第一弾。企業を批判することさえタブー視される企業社会においては、内橋、奥村、佐高らの歯に衣着せぬ発言は、ある意味で貴重である。しかし、徹底的な批判であるがゆえに、企業人としての無意識が働き、つい反発してしまう読者も多いだろう。

 しかし、本書においては、批判のための批判といった面は少なく、日本企業と、そのおかれている状況を多角的に検証しようとする意欲が伺える。激辛三氏による七〇ページ渡る徹底討論「九〇年代不況は日本経済を変える」は、三氏の、従来の主張の集大成という感がある。その後には、深田祐介はじめ九人の論客による論文が続く。

 影山喜一による「日本型経営礼賛論の明暗」は、日本経済の危機・アメリカ経済の復活という現在の状況を考えるうえで興味深い。工場の実証研究から、企業組織のメカニズム、産業構造、はては日本人の心理特性まで広範に渡る日本的経営論の数々を、とりあえず二つの軸で切ってみせる。

 一つ目の軸は、社会発展によるもので、日本の後進性・先進性のいずれかに注目する。もうひとつの軸は、諸外国との比較によるもので、特殊要因・普遍要因のどちらかに注目する。後進性・特殊要因に注目する立場は、日本の遅れを取り戻すのがいかに困難かを嘆き、後進性・普遍性の立場は、歴史的必然に基づく日本の将来を強調する。七〇年代末までは、いずれにせよ日本企業の後進性が強調されてきたが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の出版以降、こうした状況は一変する。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、日本の先進性を特殊要因と結びつけているため、礼賛論ではあるものの、日本異質論の先駆けとなった。つまり、日本を先進グループの一員と認め日本の経験を学ぼうとしても、習得不能な特殊要因があることを主張する。とすれば、諸外国は、日本にルールの変更を求めるか、仲間外れにするかのいずれかを選ばざるをえない。ジャパンバッシングの根拠は、この点にあり、逆に日本企業自身による礼賛論も日本の特殊要因を強調することから生じてくる。

 重要なのは、日本の先進性と普遍要因に注目した日本礼賛論である。影山氏が「アメリカ製のトロイの木馬」と指摘するように、礼賛論は「素晴らしい業績に恵まれた日本企業を賞める根拠の探求ではなく、日本企業の成功の秘訣を外国企業に分かるよう説明することであった」。アメリカ企業が復活した今、日本礼賛論が存在する意味はなくなってしまったとさえいえる。

 「イミテーション技術立国の光と影」(下田博次)、「情報テクノロジーと日本企業の行方」(須藤修)の二編は、一般的な経済論が見落としがちな技術発展のインパクトを示唆しており、興味深い。また、永野健二は「日本的コーポレートガバナンスの道」において「社会主義は『資本の軽視』ゆえに敗退し、資本主義は『労働の軽視』の上に危機を加速している」と指摘し、「資本と労働」の新しいシステムの構築を求めている。シリーズの今後が期待できる。


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▽『日本の潜在成長力』――持続的な繁栄か、それとも長期停滞か。

日本開発銀行調査部編『日本の潜在成長力―労働力減少を乗り越える成長策』(日本経済新聞社)



 本書は、不良債権問題、企業の売上高の減少、円高による国際競争力の低下など、日本の抱える短期的な問題も視野に入れながら、持続的な繁栄への条件を、需要と供給の両側面から検討する。

 今後の労働生産性の伸び率を80年代の平均値と同じ三・一%と仮定しても、労働力人口の減少や労働時間短縮により、2000年までの潜在成長力は二%にとどまることを実証的に明らかにする。そして、製造業に比べ労働生産性の低い非製造業の生産性向上のためには規制緩和が重要であることを主張する。

 マクロとミクロの両視点の混在、各章の整合性にかけるなど、議論にやや粗い点があることが惜しまれるが労作であることは間違いない。

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▽『出社拒否』――迷う三〇歳、悩む四〇歳 職場は今楽しいですか?

石郷岡泰『出社拒否』(講談社ブルーバックス)



 企業社会で忙しい日々を送るサラリーマンが、突然出社できなくなる例が増えている。彼、彼女が会社にこなくなった理由はなにか、豊富な事例をもとに説き明かしていく。

 産業カウンセラー(会社員の悩みに応えるカウンセラー)でもある筆者は、出社拒否になる人が抱く不安は、中学生・高校生の心の内に潜む不安と変わりがない、と指摘する。健康な人には理解しにくい、こうした心理に陥ってしまうのは、地位や立場と、はたすべき役割の兼ね合いを見誤ってしまうことに原因がある、という。

 筆者は、周囲に対する態度や考え方の対応の変更を迫られる、三〇歳前後、そして四〇代前半を、危機の年代と指摘する。

 三〇歳前後というのは、家庭や職場、あるいは仕事に対する自分の対応を見なおす時期にあたり、現実を吟味しながら、一方で自分の「夢」や「野心」を再形成することを迫られる。

 これに対し、四〇歳前半ともなると、職場では中堅となり待ったなしの能力が要求される。家庭では子供が思春期に入るといったこともあり、今まで以上に位置や役割が固定化され、夢や野心を抱くよりも現実での成果の積み重ねが求められる。

 いずれも、立場の移行期にあたり、仕事で成果をあげること以外の役割が期待される。まずは、職場を楽しくする努力と、仕事を忘れリラックスする努力の両立を。

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1993.04.10

「カード破産」――紹介屋、買取屋、破産屋がバッコする「現代の公害」



「アッケラカーのカー」という表現で、渡辺外相が、アメリカのカード破産の多さを揶揄したのは何年前のことだろうか。

 まさか、日本も同じような状況になるとは考えていなかったのだろう。今や、日本の個人ローン総額の対GNP比率は、アメリカのそれを上回る。そして、昨年一年間の個人破産件数も、大台の四万件を突破した。

 『カード地獄100万人の現実』(上手なカードの使い方を考える会編、扶桑社)は、カード破産に陥りやすい人は、「真面目で几帳面な人」と指摘する。いい加減な性格では、多重債務に陥る前にブラック・リストにのってしまうのだという。さらに、「取り立てに弱い人」も有力候補だ。性格の問題だけでなく、公務員など立場上取り立てに弱い人がいるという。同書には、さまざまなタイプのカード破産寸前の人たちが登場する。

 こうした人たちから、さらに絞り取ろうというのが、「紹介
屋」や「買い取り屋」だ。『悪知恵』(長山治一郎著、データハウス)によると、「紹介屋」とは、サラ金などからもう借りられなくなった人に、審査の甘いサラ金を紹介する。「買い取り屋」は、同じような人にクレジットで商品を買わせで換金屋に引き取らせる。

どちらも調達できた金額の二~三割の手数料をとるボロい商売だ。しかも、客の借金が増えようが、後はおかまいなし。時には違うサラ金を紹介し、もう一稼ぎということもあるようだ。

 同書の著者は、現役の紹介屋。いざとなったら、弁護士を通じての任意整理か自己破産を薦めている。最近の「紹介屋」は、弁護士を紹介して破産を勧める「破産屋」へ変化している。

 安易な自己破産奨励に、異を唱えるのが『力-ドパニック』(玉木英治、現代書林)。街金融から「クレジット債権管理組合」のコンサルタントへ転身した著者は、安易な破産よりも、更正・救済を前提とした弁済計画を債務者、債権者の話し合いで作り上げるぺきだと主張する。

 自己破産の是非はともかく、こうした状況になるまでローンがかさむことこそ問題だろう。

 直木賞を取り損ねた小説『火車』(宮部みゆき、双葉社)には、カード破産救済専門の弁護士が登場。この弁護士は現代のカード破産を「公害」と呼び、販売信用は通産省、消費者金融は大蔵省という縦割行政の問題点を指摘する。物語自体は、社会派ミステリーという趣で、カード破産が発端になる。

 けがで休職中の刑事のもとへ、義理の甥が現れる。婚約者が過去に自己破産していた事実を知り、それを突きつけた途端に婚約者に失踪されてしまったのだ。その婚約者を探すうちに刑事が出会ったのが、先の弁護士。物語はここから、思いもかけない展開をみせる。

 クレジット・カードに象徴される情報化社会に斬り込み、巧みなストーリー・テリングで最後まで飽きさせない。読後に、カネと人間との関係につきまとう、どうしようもないやりきれなさが残るのが、並のエンターテイメントではないことの証であろう。


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