1994.07.10

▽『私の外国語上達法』――外国語上達の秘訣を教える五〇のエッセイ



『私の外国語上達法』(安原顕編、リテレール・ブックス)



 『私の外国語上達法』は、雑誌感覚の単行本「リテレール・ブックス」シリーズの第二弾。翻訳家など外国語に携わる人々の外国語学習にまつわるエッセイ集である。エッセイ集としても楽しめるが、外国語を学ぼうとしている人には、是非ご一読をおすすめしたい。愛用の辞書も紹介されており役に立つ。

 さて、本書の編者”スーパーエディター”安原顕が巻末で吠えまくっている。

 「ぼく自身、『英語』は中学・高校・大学の第二語学(高校を五年やったため)計十年、高校の第二語学は「ドイツ語」(落第したので計四年)、よせばいいのに大学は仏文科に進み(一応、六年在学したので六年間)、これだけやったにもかかわらず、身についた外国語は一つもない。なぜか」

 無味乾燥でつまらぬ教科書の講読ばかりの授業では何十年やっても身につくはずはない。社会に出れば使うことなどないため、何のために勉強したのか呆れるくらい忘れてしまう。語学教師の馬鹿さ加減、文学・芸術的教養のなさ。「ABC」と「文法」から始める幼稚園並みの大学の講義。日常会話が話せる程度の帰国子女を珍重する馬鹿企業・・・。

 「結局のところ、一般人にとっての『語学』とは、本を読み、知識や情報をえるための道具でしかなく、その程度のことであれば、独習であっても辞書を引き引き読めば、おおよそのことは分かるものであり、何十年かけて教育しているつもりの日本の語学教育など、一日も早くやめにすべしと、ぼくは声を大にしていっておきたい」

 学校教育の無用ぶりを伝える本をもう一冊紹介しておこう。

 『外国語としての日本語』(佐々木瑞枝著、講談社現代新書六五〇円)がそれだ。外国人に日本語を教える日本語教師の立場から書かれている。



 本書によると、学校教育で教えられる国語文法(口語文法)とは、「古典文法」に合わせて作られたものだという。現代人にとって「古典」は外国語のようなものであり、国語文法は、古典文法を習うための導入部分のようなものだ。つまり、国語文法は、現在の話し言葉を分析して作られたものではない。

 確かに、学校教育で覚えさせられた国語文法の、たとえば動詞の活用(未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形)など、日頃は全く意識しないが、それは、日本語を話せる日本人にとって、文法など必要はないためだ。それでは、日本語をまったく知らない外国人に対する場合はどうなるか。

 「我々が習ってきた『国語文法』は、すでに日本語が理解できる『日本人』を相手にしてきただけに、大切な文法項目が抜け、とてもこれでは太刀打ちできない」

 日本語に即した日本語文法を、国語文法にかわるものとして提示している。先の動詞の活用の例としては、主に語尾の形に注目して、ますフォーム、辞書形、てフォーム、たフォーム、たらフォーム、たりフォーム、否定形、受け身形、使役形、意向形に分類する。

 外国人に説明するのなら、こちらの方がすっきりしているのは、言うまでもない。外国人に簡単な日本語を教える程度にすら役にたたない国語教育など、即刻やめにすべし、である。



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