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1994年11月

1994.11.10

▽『イトマン・住銀事件』



『ドキュメント イトマン・住銀事件』(日本経済新聞社)



 日本経済新聞の特別取材班による、「イトマン・住銀事件」のドキュメント。

 90年5月の報道を発端とするイトマン事件の特徴は、マスコミがイトマンに注目しているさなかに、イトマンと許永中の間で不正な絵画取引が行われるなど、事件が同時進行で進んでいった点にある。この絵画取引は、絵画を担保とした融資に切り替えられたものの、許永中は資金繰りに窮し、91年4月に不渡りを出す。これを機に、大阪地検の強制捜査が開始された。

 本書は、この直後に出版されたものであり、事件全体の整理ができておらず解りにくい点が多い。しかし、そのことがあらぬ効果を生み出し、かえって当時の異様な熱気が伝わってくる。

 イトマン事件の報道では、日本経済新聞社のような、資本主義に寛容なはずのメディアがリードした。それほどまでに、資本主義の根幹を揺るがす事件であったといえるだろう。

 先頃起きた、住友銀行名古屋支店長殺害事件が、イトマン事件と関係があったとは言い切れない。しかし、「向こう傷は問わない」と称される磯田イズムが、全く無関係だったとは言えまい。

 すでに、磯田一郎は昨年死去しているが、死して今なお住友銀行を苦しめ続ける「磯田イズム」とは、一体何だったのか。そして、第二第三の磯田一郎が現れた時、それが事件となる前に批判しうる言葉を、“経済”ジャーナリズムは持つことが出来るのだろうか。


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▽ナンシー関の見方――『鳩よ!』1994年10月号



 かつては、マイナーな雑誌でしか、お目にかかれなかったナンシー関も、「週刊文春」などでコラムを持つようになり、メジャーな存在になってしまった。

 短い文章に、消しゴム版画の似顔絵を組み合わせ、テレビ番組や芸能人を批評する、という独自のスタイルを築いてしまったが、恐るべき手先の器用さに加えて、その秀逸な文章は、もはや誰も真似できない境地に達してしまっている。

 このロングインタビューは、ナンシー関の、誰も知らない過去に初めて踏み込んだ企画と言えるだろう。驚くべき事に、消しゴム版画の手法は高校時代に独学でマスターしていたといい、また、文章に関しても特に修行した経験もないという。

 また、ナンシー関流のテレビの見方も紹介されている。ビデオ四台を駆使して一日中ウォッチしている様は、もはや圧巻としかいうほかはない。

 ナンシー関のことを、テレビを一日中見て、人の悪口を書いているだけ、と思ったら大間違いである。

 最近の週刊誌でよく見かけられる「天下の暴論」シリーズを、ナンシー関は『達人の論争術』(別冊宝島EX)で分析している。ナンシー関にも「天下の暴論」シリーズの発注はくるというが、これに対しては、「嫌悪を、ちゃんとした言葉になるまで熟成する見通しが立たずに、お断りするというのが多い」と述べている。

 並の物書きが、吐ける言葉じゃないことだけはお分かりいただけるだろう。


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▽『中年なじみ』――会社人間の半生を問い直すミドル達の生き様



野田正彰『中年なじみ』(ダイヤモンド社)



 『週刊ダイヤモンド』に連載中の「ミドルの履歴書」をまとめたもの。著者の野田正彰氏は、京都造形芸術大学教授であり、これまでにも『コンピュータ新人類の発見』『喪の途上にて』などで数々のノンフィクション賞を受賞している。野田氏の専攻は文化精神医学であり、サラリーマンのメンタルな部分に照準を合わせた著作も数多い。

 本書の書名である『中年なじみ』とは、「中年に達したサラリーマンが機能的なビジネスの付き合いだけでなく、子供のころまでの人格的な付き合いをもう一度取り戻したいと思っている。その心情を名付けたものである」という。

 その動きは、地域活動、ボランティア、研究会、家族との関係の見直しといったように人それぞれだが、会社人間として生きてきたサラリーマンが、自分の人生の意味を問い直そうとするところから、始まっている。

 「団塊の世代が中年に達し、中年の問題が、大きくなろうとしている。バブル期、当時五十歳代後半から六十歳代の経営者たちによって踊らされた四十歳代前半の男たちが、ながびく不況のなかで、雇用リストラ(再調整)の対象にされている」

 今回の不況を表現するならば、個人的には「団塊世代不況」といえるのではないか、と思っている、バブル期に、各企業の営業の一線に立っていたのが団塊世代なら、バブル崩壊後のリストラの対象になるのも、団塊世代といえるだろう。一年ほど前に、製造業各社で五〇歳代のホワイトカラーの首切りが話題となったが、あれで終わりだとは考えにくい。むしろ、いずれ来る、団塊世代を対象とするリストラの伏線であると見るのが自然だろう。問題は、それをどうみるか、である。

 すでに一年以上前から動きがあったはずの「金融空洞化」が、今年の6月頃から、にわかにマスコミで騒がれ始めるようになった。そこで、繰り広げられる「日本は駄目だ」キャンペーン。金融関係者も、苦悶の表情を浮かべながら「シンガポール、香港をみならわなければ」と語る。

 かつて、高度成長の時代には、戦争に生き残った昭和一ケタ世代が、「日本は駄目だ。アメリカを見習わなければ」と言いながら、歯を食いしばって頑張ってきた。そのアメリカが、シンガポールや香港に置き換わったものの、今度は誰が歯を食いしばってくれるのかが、見えてこない。

 団塊世代が、無責任な経営者の犠牲となっていく惨状をみれば、その下の世代が「滅私奉公」に疑問を持つのは、簡単な道理である。また、日本経済を実質的に支えてきた製造業、特に下請けの中小企業が全く遇されない経済構造をみれば、誰もそこへ行かなくなるのも当然だろう。

 女性雇用の問題もある。今年の就職戦線は、特に女子大生にとって厳しいものであった。男女平等の教育を受けてきたはずの女性達が、社会の入り口で選別される。「男女平等だったはずなのに」という思いがついて回るのも、また当然である。


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