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1995年1月

1995.01.10

▽『終身雇用』――「終身雇用」は幻想か 諸外国の実態も紹介

野村正實『終身雇用』(岩波書店)



 先日、学生時代のゼミの友人の結婚式があった。世界的に名の通った電機メーカーに勤める彼の、その上司が挨拶にたった。「常日頃から、色々なことに興味を持つようにと言っております。他に良い仕事があるならば、そちらに移ってもらっても構わないと思っています……」

 冗談めかして言ってはいたものの、半分は本気だったのだろう。雇用調整に脅える世代の「親心」が、そう言わせたのかも知れない。少なくとも、若い世代にとっても、「何となく終身雇用だと思っていた」というのが、通用しない時代になったのは間違いない。

 長引く不況の中、日本企業に特有な雇用関係の見直しが迫られている。終身雇用、年功序列型賃金、企業別組合が「日本的経営の三種の神器」といわれてきた。本書において著者は、日本企業の雇用関係の歴史と現状を丹念に検証した上で、「日本企業の雇用慣行は終身雇用である」という命題が誤りであることを指摘する。

 そもそも、「終身雇用」とは、大企業に就職した労働者の一部が定年まで勤続する、という現象をさした言葉に過ぎない。しかし、この「終身雇用」という言葉はマスコミなどを通じて一人歩きし、「日本企業は終身雇用である」と一般に信じられるようになってしまった。この事実に気が付いたのか、最近のマスコミでは、定年まで一つの企業に勤め続ける人の割合は二割に満たない、という労働省の調査をあげて「もともと終身雇用は幻想であった」と主張することが多くなっている。

 しかし、「終身雇用は価値観と結びついている」という著者の指摘は、きわめて重要な意味をもっている。

 「終身雇用が価値観である、ということは立派な会社の雇用慣行は終身雇用であるべきである、というにとどまらず、すぐれた社員は終身雇用されるべきである、ということも含意されている」そして、「真に中核的な従業員が終身雇用である限り、価値命題としての終身雇用は維持されていることになる」。真に中核的な従業員がごく少数になった時に初めて、終身雇用という観念は消滅する、という。

 これまでの日本企業においては、多くの従業員が、「幻想としての終身雇用」を信じていたために、社会的な力を持つようになっていた。「終身雇用は、制度・慣行としては存在していないが、社会的な規範としては存在している」ことになる。しかし、社会的な規範としての終身雇用は、人員整理を排除するものではない。日本において問題となるのは、人員整理の基準に関し、社会的合意が形成されておらず、企業の恣意的判断に委ねられている点である。

 本書の第五章では、ドイツ、アメリカ、スウェーデンにおける人員整理の例が紹介されている。この三国に共通するのは、労使協定や社会的な合意により、人員整理の際、より年齢が高く、勤続年数が長く、家族を支える義務のある従業員が社内に残る、という原則が確立されている点である。そして、この点に関し、日本の労働組合は、積極的な役割をはたしてこなかった。

 現在、中高年の人員整理が現実のものとなっている。この過程で、どういった基準が確立されるべきか、もっと議論されるべきだろう。

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▽『人間交差点』



『人間交差点』(原作:矢島正雄、作画:弘兼憲史、小学館文庫)



 最近、書店などで、漫画の文庫版が目に付くようになってきた。手塚治の全集あたりが、先鞭を付けたのだろうが、出版社にとっても、持てる資産の有効活用という面があるのだろう。バブルの頃には、漫画の豪華版の出版が話題となったこともあった。時代の移り変わりが感じられて興味深い。

 さて、その漫画文庫に、知る人ぞ知る名作が加わった。『人間交差点』が、それだ。80年から89年にかけて、青年向けのコミック誌に連載された、一回読み切り形式の人間ドラマである。ストーリーは脚本家の矢島正雄が担当し、漫画を『課長 島耕作』であてる前の弘兼憲史が担当している。

 オムニバス形式の、それぞれの話に登場する人物たちは、いずれも人間の「業」に翻弄されながら生きている。

 コメディアンのラサール石井が巻末で述べている。「人間の暗部を描きながらもその奥に微かに光る温かい心を巧みに描いており、読み終わった後には必ず爽やかな感動がある」と。

 「暗い、重い、クサイ」の三拍子そろったような漫画だが、何とも言えない魅力がある。ハッピーエンドにならず、悲劇的な結末を迎えることの多い初期の話の方が、作者の「罪深き人間達」への優しい眼差しを感じることができるだろう。

 ここらあたり、殺されて海に捨てられた人間の過去を、これでもかと暴きたてる昨今のマスコミ関係者に、是非とも学んで欲しい点である。


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▽黄金の読書――『ノーサイド』1994年12月号



 『ノーサイド』といえば、中高年を対象とした月刊誌。その12月号で「すべての本好きと、元・本好きに捧げる」と銘打った、読書に関する特集を行っている。

 フランス文学者の鹿島茂氏が、「文学全集の活用術」を提案している。昭和三〇年代から四〇年代にかけて、日本のほとんどの家庭には、文学全集が置かれていた。それが今や、家庭内の無用の長物と化し、古本屋にいたっては、「タダでも引き取らない」有り様だ。

 鹿島氏によれば、「教養や人格形成の手段として『文学全集』を編んだ国は世界でも日本しかない」という。外国では教養を身につけるために、文学作品を読む若者などはいない、という。

 「そもそも、こんな高級な大人の文学を、十七、八の若僧が読んでわかるわけがないではないか。元来、古典というのは、ありとあらゆる人生経験を積んだ大人が対等の読者に語りかけたものだからこそ後生に残ったのである」

 鹿島氏は、ゴミ寸前の文学全集を解体し、自分の好みのテーマに沿って編集し直すことを提案している。たとえば、自分の好きな都市を描いた作品だけを集め、自分だけの「パリ全集」や「ロンドン全集」を作る。パリやロンドンを旅した後は、これで思い出に浸る。「親子」、「裁判」といったテーマで全集を作っても面白いかもしれない。

もはや文学全集が格安で手に入る時代である。「老後の楽しみは、もうこれでほとんど決まり」と結んでいる。


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▽「四十にして惑わず」――不惑を迎える「五五年体制」を考える




 子曰く、
 吾十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。
 四十にして惑わず。

 1995年に「不惑」を迎えるものに、いわゆる「五五年体制」がある。

 新しい選挙制度の区割り法案も可決され、またぞろ選挙風が吹き始めている。それも猛烈な勢いで。新々党の旗揚げに続いて、社会党の分裂も予想され、「五五年体制」は、すでに過去のものとなったのだろうか。

 『日本の論点 ’95』(文芸春秋社刊)において、立花隆氏は、五五年体制を「政財官の癒着構造」とみなし、「政治の上部構造がいかに変わろうとも、官僚制という下部構造が変らなければ、本質的な変化は何も起こらない」と指摘する。

 文芸春秋社が『日本の論点』の第一弾を刊行したのが92年末のこと。そして、『朝日ジャーナル』が休刊したのも、同じ年の5月である。言論界における問題提起の主役が、左から右へ移ったことを象徴しているともいえる。朝日ジャーナルの主な記事を集めた『朝日ジャーナルの時代』(朝日新聞社刊)は、言論界における「五五年体制」の記録でもある。「右手に朝ジャ」を持ったことのない人も、「あの時代」を振り返ってみるのもいいかもしれない。

 日本人ほど日本人論が好きな国民はいない、とはしばしば言われることである。『日本人論』(南博著、岩波書店)は、明治期以降の主要な日本人論が網羅的に紹介されており、「日本人の自意識」の移り変わりがよく分かる。日本社会論の系譜としても読むことができる。

 また「戦後強くなったのは、女性と靴下」とも、よく言われる。しかし、国際的にみれば日本で一番強くなったのは、やはり「円」。『円の総決算』(三國陽夫著、講談社)は、日本経済の抱える歴史的な問題点を指摘する。先行き不透明な日本経済を考える上での示唆も多い。

 ご存じの方も多いだろうが、冒頭の「四十にして惑わず」の続きは次のようになる。

 五十にして天命を知る。
 六十にして耳順う。
 七十にして心の欲する所に従へども矩をこえず。

日本型資本主義は、しばしば「儒教的」と言われるが、はたして本当にそうだろうか。青土社が刊行した「シリーズ世界の宗教」は、宗教の入門書として世界的評価の高いファクツ・オン・ファイル社版を翻訳したもの。この中の一冊『儒教』を読んで、自らの内なる儒教的精神を確認してみるのもいいだろう。

 四〇歳を過ぎても「不惑」といかず、まだまだ迷い多き中年の方々には、目黒考二著『中年授業』(角川書店)がお薦め。『本の雑誌』編集長を務める著者が、テーマ別に本を紹介しながら「奥ゆかしき中年」について語っていく。思わずニヤリとさせられる。


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