1995.04.10

▽『マルコポーロ』1995年2月号 ナチ「ガス室」はなかった。



 問題の記事は、ある意味で“よく出来て”いた。「ホロコーストは作り話だった」という説を披露した後で、「読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることができなかった」と前置きし、記事の最後は「この記事をアウシュビッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい」と結んでいる。

 胡散臭い記事というのは、文章表現が感情的であったり、大上段に構えていたりしており、読者もそうしたニオイを感じながら、話の中身を割引いて読んできたはずだ。

 しかし、問題の記事は、そうした胡散臭さは極力ぬぐい去られている。この加工度の高さ=文春ジャーナリズムの本質、と読者が思うようになったら、文芸春秋の雑誌は、何を書いても信用されなくなってしまい、その損失はきわめて大きい。

 文芸春秋という出版社は、ジャーナリズムとエンターテイメントを兼ね備えた出版社であった。どちらも、人を育てるのに時間のかかる分野であり、この二つの分野で同時に強みを持つ出版社はほとんどない。テレビ界でいえば、ドラマと報道が二枚看板だったTBSが、情報産業を指向し始めたとたんに、どちらもおかしくしてしまったのが記憶に新しいはずだ。

 しかし、今回の廃刊は、広告主の圧力に負けた、という印象が拭えない。「南京大虐殺はなかった」と主張しても雑誌がつぶれないのと対照的だ。



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