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1995年4月

1995.04.10

▽「阪神大震災」――発生から二カ月が経過、進まぬ復旧作業



 阪神大震災が起きてから、すでに二カ月が過ぎようとしている。復興への動きは見られるもの、依然として二〇万人が避難生活を強いられている。

 阪神大震災では、政府の対応の遅れが重大な問題となった。テレビの中継が事態の悪化を刻一刻と伝えて行く中で、「国が国民を見殺しにした」と感じた人も多いはずだ。自衛隊の出動が遅れたのは兵庫県知事の要請が、午前一〇時になるまでなされなかったためだ、といわれている。しかし、一万人規模の動員が、さらにそれから丸一日たってからというのは遅すぎるのではないだろうか。「イラクに侵攻されたクウェート」を連想したのは、私だけだろうか。

 国に、頼っていられないことがはっきりしたためか、『民間防衛』(スイス政府編、原書房)の売れ行きが伸びている。これは、スイス政府が、スイス国内の全家庭に一冊ずつ配布したものを翻訳した本で、かつて絶版になったものが大震災直後に新装本として発売された。すでに一〇万部が売れている。実際には、地震の本ではなく、核戦争を含めた戦争を想定したほんである。日本の危機管理能力のなさが、本書をベストセラーにしてしまっている。

 その張本人、村山首相は「予想外のこと」と国会で答弁しているが、地震の発生が休み明けの早朝だったのは、まさに「不幸中の幸い」であったはず。関東大震災と同じ、午前11時58分に発生していたら、死者の数は、ケタが一つ違っていたはずだ。『関東大震災』(姜徳相著、中公新書)にみられるような、流言飛語にもとづく暴動がなかったのは、幸いだった。

 また、ヘリコプターによる消火もできるのか、できないのかはっきりしていない。もしできないのならば、早急にそうした技術を開発すべきだろう。

 阪神大震災では、テレビの報道も反省を迫られる。あるテレビ局では、震度六以上の地震があれば自動的に特報体制を組むマニュアルが作られていたというように、初期報道においては、きわめて重要な役割を担っていた。

 しかし、事態が明らかになるにつれ、被災者に有益な情報を流せたかと言えば、疑問が残る。たとえば、被災者への援助物資を送るにしても、一つの箱に色々なものを詰め込むと、仕分け作業が大変になる、あるいは、状況に応じて必要なものが代わっていくというようなことは、雲仙や奥尻や八戸の時にすでに分かっていたはずのことである。テレビも、一般の人が何をすべきか、もっと呼びかけるような報道をしても良かったはずだ。情緒的な報道が混乱を招き、被災者の感情を逆撫でしたことは否定できない。

 はっきり言ってしまえば、雲仙も奥尻も八戸も、大都市の人間には他人事でしかなかった。雲仙や奥尻や八戸をきちんと語ってきた者にしか、阪神大震災を語る資格はなかったのだと思う。


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▽『マルコポーロ』1995年2月号 ナチ「ガス室」はなかった。



 問題の記事は、ある意味で“よく出来て”いた。「ホロコーストは作り話だった」という説を披露した後で、「読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることができなかった」と前置きし、記事の最後は「この記事をアウシュビッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい」と結んでいる。

 胡散臭い記事というのは、文章表現が感情的であったり、大上段に構えていたりしており、読者もそうしたニオイを感じながら、話の中身を割引いて読んできたはずだ。

 しかし、問題の記事は、そうした胡散臭さは極力ぬぐい去られている。この加工度の高さ=文春ジャーナリズムの本質、と読者が思うようになったら、文芸春秋の雑誌は、何を書いても信用されなくなってしまい、その損失はきわめて大きい。

 文芸春秋という出版社は、ジャーナリズムとエンターテイメントを兼ね備えた出版社であった。どちらも、人を育てるのに時間のかかる分野であり、この二つの分野で同時に強みを持つ出版社はほとんどない。テレビ界でいえば、ドラマと報道が二枚看板だったTBSが、情報産業を指向し始めたとたんに、どちらもおかしくしてしまったのが記憶に新しいはずだ。

 しかし、今回の廃刊は、広告主の圧力に負けた、という印象が拭えない。「南京大虐殺はなかった」と主張しても雑誌がつぶれないのと対照的だ。


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▽『岸辺のアルバム』



山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞出版局)



 妻の不倫、子供の家出など、「家庭の崩壊」をテーマとした山田太一の代表作。77年にはテレビドラマとなり、日本のドラマ史において、決定的な転換点をもたらした。74年に東京都狛江市で起きた、多摩川水害を題材にしており、洪水によって家が流されるシーンでは、実際のニュース映像が使われている。

 高度経済成長を経て家を持つことが、重要な人生の目的となった。そのサラリーマンにとって、家を失うことは、自分の人生を失うことに等しく、また、家を失うことが家庭の崩壊と重ね合わせて描かれている。

 しかし、洪水によって家が流される寸前に、家庭の記録であるアルバムを、家族が力を合わせて取りにいく。このことをきっかけに、家は失われたものの、家庭を取り戻すことができた、というのがドラマの結末である。

 現実の多摩川水害では、家が流された後には、「二重ローン」といった苦難が待ち受けていた。この問題は、阪神大震災の被災者が、これから直面するであろう問題とよく似ている。

 住民が国を相手取って起こした「多摩川水害訴訟」は、一審勝訴、二審敗訴、最高裁による差し戻し、差し戻し控訴審の勝訴という曲折を経て、92年12月に、国の賠償責任が確定するまでに、実に一八年の歳月が流れている。この間原告の中には、亡くなった人もいる。

 阪神大震災の被災者には、アルバムどころか、家族さえ失った人もいる。“救い”のドラマは、一体どのように描かれることになるのだろうか。


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▽『物語 アイルランドの歴史』――和平実現なるか? イギリスの裏面史をたどる



波多野裕造『物語アイルランドの歴史―欧州連合に賭ける“妖精の国”』(中公新書)



 94年9月のIRA(アイルランド共和軍)の停戦合意により七〇年余り続いてきた北アイルランド紛争は、ようやく解決の糸口をつかんだかに見える。

 本書は、日本人にとって馴染みの薄いアイルランドの歴史を概観することができる。そこではイギリスの植民地支配の苛酷な一面が見てとれる。

 最近は、ヨーロッパの先住民族「ケルト」に注目が集まっているが、アイルランド人には、ケルト文明の影響が色濃く残っている。このケルト民族に、北欧系の民族が合流し初期のアイルランド人を形成した。イギリスによる支配が始まったのは、イギリス史における「ノルマンコンクェスト」の時代である。これ以降八世紀にわたり、少数のイギリス人が多数のアイルランド人を支配する構図が作られ、時代とともに、少数のプロテスタント(イギリス人)による多数のカトリック(アイルランド人)の支配へと移行する。

 1921年に、英・アイ条約が結ばれ南アイルランドは独立したが、プロテスタントが多数を占める北アイルランドは連合王国(イギリス)にとどまった。少数派となった北アイルランドのカトリックは、二級市民の扱いを受けるようになった。これが、血で血を洗う北アイルランド紛争の原因である。

 アイルランド史はまさにイギリスの裏面史である。その意味では、イギリスの歴史が頭に入っていないと本書はやや分かりにくい。


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