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1995年11月

1995.11.22

▽『噂の真相』9月号 大蔵エリート官僚の……



 ジャーナリズムとしては、いささか問題のある『噂の真相』誌の記事を取り上げるのは、いささか気が引ける。

 しかし、世間をこれだけ騒がせている官僚接待の問題についてまったく触れないのもどうかと思う。この時期にこういう問題があった、ぐらいのことは、やはり触れておくべきだろう。

 さて、カマトトぶるわけでも何でもないが、官僚が受ける接待というのが、ここまでレベルの低いものだとは思いも寄らなかった。オウム真理教の教祖や幹部を批判するときに「えらくなればなんでもできる」という文句が使われたが、人間の組織はどこに行っても同じであることがよく分かる。続けて、「高学歴のエリートがなぜ?」と言ってあげるのもいいだろう。

 最近はあまり言われなくなったのかもしれないが、昔はよく、「飲む、打つ、買うができなくて一人前の男か」と言われたものだ。

 でも、それって自分でリスクをとって(当然自分のカネで)やるところに、意味があるんじゃないのでしょうか。それが、自己責任ってもんでしょう。

 それを、人にカネを払ってもらってなんて……。

 あぁ、情けない。


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▽「文章がうまくなりたい」――文章がうまくなるには優れた文章を読むべし

 編集者稼業をしていると、ときどきとんでもない文章に出会うことがある。

 普通の人にはとても書けそうにない、もっと分かりやすく言えば、バカか天才のいずれかにしか書けないような文章だ。しかし、そういう文章に出会ったときの驚きがあるから、編集者の仕事は面白いと言えるのかもしれない。

 しかし、バカでも天才でもない我々凡人は、名文や美文は書けなくとも、せめてきちんとした文章が書けないか、と願うのが普通だろう。

 まずは、「裏返し文章読本」と銘打たれた『悪文』(中村明著、ちくま新書)。タイトルの付け方がうまいのか、大手書店の売れ行き上位にも顔を出しているようだ。

 本書は、文章の構想の立て方、文の構造上の注意点、句読点の打ち方など解説項目は多岐にわたり、文章に関する小辞典といった趣だ。

 これよりも、もっと実践的な物として、そのものズバリ『ライターになる!』(CWS編、メタローグ)がある。

 メタローグか主催したライター養成講座の講義録をそのまま掲載したもので、インタビュー、書評、映画などの各ジャンルごとのフリーライターが、実戦的な方法論を伝授している。

 たとえば、「哲学的な文章を書く人に見られる傾向ですが、単語を括弧でくくる人が多いんですね。自分にとっては特別の意味があって使っているんですが、他人にとってはほとんどどうでもいいことです。不必要な括弧は文章の品位を落としますし、読みにくい」(中条省平「文章の書き方ー基礎編)。

 しかし、本来、文章を書くとは自分を表現することであり、そこには、書く喜びがなければならないはずだ。技巧よりもなによりも、書きたいことを書く、という姿勢が大切だろう。

 そうした原点を思い起こさせてくれるのが、『清水義範の作文教室』(清水義範著、早川書房)。パスティーシュ(模倣小説)の第一人者・清水義範が、弟が名古屋で経営している学習塾の生徒を対象に開いた作文教室の模様をそのまま一冊の本にしてしまった物である。

 FAXを使って作文のやりとりをしているため、本書の中では、清水氏は「東京先生」と称して作文の添削指導を行っている。勝手気ままに書いている子供達の作文を読めば、自分は子供の頃にどんな作文を書いていたかと、つい考えてしまう。

 既成の教育観にとらわれない清水の添削指導もむしろ参考になる。本書は、ただ読むだけでも抱腹絶倒になること請け合いだ。

 結局のところ、良い文章を書くには、優れた文章に出来るだけ多く接することにつきるのではないだろうか。

 名文のアンソロジーとしては、筑摩書房の『文学の森』シリーズや、『高校生のための文章読本』シリーズがお薦め。

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▽『ヨーロッパの死者の書』――よく死ぬためのマニュアルとは?



竹下節子『ヨーロッパの死者の書』(ちくま新書)



 柳田邦男の『犠牲』に比べれば、本書はやや観念的であるが、重要な視点を持っている。

 本書によれば、「死者の書」とは、死者が死後の世界でいかに振る舞うべきかというマニュアルのようなもので、生前にも読まれ、また、生き残った人がそれにしたがって死者をフォローし、死を共同体の事業とするためのものである。

 有名な「チベットの死者の書」を初めとして古代のさまざまな文化には、必ず死者の書があった。キリスト教には、そうしたタイトルの書物はないが、長い歴史の中で、「死者の書」に相当するものが、作られてきた。

 本書は、メソポタミア文明から始まり、タイトル通りに「ヨーロッパの死者の書」について触れていく。この中で、重要な視点とは何か。

 今の日本は、日本的なものをどんどん失いながら、西洋化した結果、死がきわめてネガティブなものになり、「生産と消費とのサイクルからはみでる弱者や死者は社会のシステムの外へ外へと追いやられるようになってしまった」という。

 そして、「私たちは『良く生きる』ためのマニュアルづくりにばかり奔走してきたけれど、『良く死ぬ』という方法論を視野にとりこんでいない限り、『良く生きる』マニュアルも決して完全なものにはならない」と指摘する。

 本書をベースに「日本の死者の書」が書かれることを望む。


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▽『犠牲 サクリファイス』――息子の死と「脳死」 “二人称の死”を提言




柳田邦男『犠牲 サクリファイス』(文藝春秋)



 本書は、ノンフィクション作家・柳田邦男氏が、自分の息子の死をきっかけに直面した「脳死・臓器移植」の現場を綴ったドキュメンタリーである。『文芸春秋』94年4~5月号に、二回に分けて掲載されたものに大幅に加筆したもので、二五歳で自らの命を絶った次男への鎮魂歌ともいえる。

 93年夏に息子を失って以来、著者は、「三か月をほとんど放心状態で過ごし」、もう作家活動を続けられないと本気で考えていた、という。それが、94年に入り、新聞の連載を引き受け、また、本書のもとになった原稿を執筆したのは、息子の魂の救済のためには自分がまず再生しなければ、と考えたからだった。

 息子の脳死に直面した著者は、これと同じ様な心理状態になっている。かつて、誰かの役に立ちたいと、次男が骨髄バンクにドナー登録していたことを思い出し、脳死後に骨髄移植できないか、申し出たのである。条件が合わず、骨髄移植できないとわかったとき、今度は腎臓移植を申し出る。惜別よりも、「志を成就させるために最善を尽くそうという前向きの感情が強くなっていた」という。

 著者は、自らの体験を描きながら、“二人称の死”という視点の提起する。欧米では、残された家族の「グリーフワーク(悲嘆の仕事)」を重要視しているが、日本の「脳死・臓器移植」の現場には、そうした点がまだ欠けているという。


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▽『「オウム真理教」追跡2200日』

江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』(文藝春秋)



 坂本弁護士一家の遺体も発見され、また、この9月から信者の公判ラッシュとなり、オウム真理教事件は一つの節目を迎えたことになる。本書は、オウム追求の急先鋒と江川紹子氏が、主に週刊文春に書いた記事を中心にまとめた物である。

 この坂本事件では、当初からオウム真理教は疑われていた。今になってオウム真理教の性格が分かった部分も多いが、その分を差し引いてみても、江川氏が初期に書いた記事は、十分説得力のある物だった。今となっては、当時の警察やマスコミの対応も、腹立たしい限りである。

 しかし、その後のオウム側のマスコミ操縦によって、オウム犯人説は次第に歪められていった。この点は、日本のマスコミ全体の反省点として十分検証される必要がある。

 江川紹子というジャーナリストの過去の仕事をみれば、オウム関連以外では、名張毒ブドウ酒事件などの冤罪事件や、『大火砕流に消ゆ』といった大新聞の報道姿勢を扱った物がある。

 一連のオウム報道では、江川氏は、反オウムの急先鋒としてテレビに出続けた。それは、ある部分、反オウムという点で利害が一致していたためでもある。しかし、テレビとて、一つの権力機構であり、人権を押しつぶすことも、容易に起こりうる。

 その時、大マスコミは、自らに都合の悪い相手に対し、手のひらを返すこともあるだろう。大マスコミの都合を越えて、仕事を続けられる、したたかなジャーナリストであってほしい。

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