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1995年12月

1995.12.22

▽ミリオンセラーの正しい作り方――『頓智』創刊号

 筑摩書房が『頓智』という月刊誌を創刊した。「天下無敵の呑気雑誌」とのコピーが表紙に書かれており、談論風発的な雑誌となっている。編集長は、『筑摩文庫』や『筑摩文学の森』で、筑摩書房の立て直しに貢献した松田哲夫氏。

 この『頓智』編集部に一通のFAXが送り付けられた。「筑摩書房はミリオンセラーをなぜ出せないのか」この質問にこたえるかたちで、同社の書籍担当者を集めて会議が開かれた。では、ミリオンセラーを出す条件といえば、「当面の資金繰りも含め会社に体力があること」「ストライクゾーンを狭めてはいけない」「ハッピーエンドであること」「ただし、ノンフィクションの場合は泣けること」などなど……。

 さらにこの会議の模様を呉智英氏に見せてアドバイスを求めているが、「こういうのを面白いと思っているようじゃねぇ」と厳しい一言。世の中にはミリオンセラーの似合わない出版社もあるようで、この企画自体、半分はお遊びでやっているといえなくもない。

 松田編集長自身、78年に筑摩書房が倒産したときに、暇に明かせて単行本の一冊一冊の収支を分析したことがある、と自著『編集狂時代』述べている。

 「それまでの印象でいえば大成功と思えたものも、実は赤字になっていたとか、かなり地味な売上げと思っていたものでも、きちんとプラスになっていたものもあった」。

 話題になればいい、という訳でもないようだ。

▽松田哲夫『編集狂時代』(新潮文庫)

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▽『最終戦』



『最終戦 10.19 川崎球場~優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分』(文藝春秋)



 1988年10月19日、仰木監督率いる近鉄バッファローズは、対ロッテ二五・二六回戦のダブルヘッダーを戦っていた。この試合に連勝すれば、近鉄は八年ぶりのリーグ優勝を果たすことができるはずだった。

 近鉄は一試合目を難なくものにしたものの、二試合目は延長一〇回、ついに時間切れ引き分けで惜しくも優勝を逃してしまった。奇しくも、その日、オリックスが、阪急ブレーブスの買収を発表した――。

 仰木監督は、近鉄時代にも一度リーグ優勝を果たし、オリックスも就任二年目で優勝に導いた。こうした指導者の能力を高く評価して、多数のビジネス雑誌による仰木監督への取材申し込みが殺到している。しかし、仰木監督は、「野球以外の話はできない」と断っているという。

 そういえば、ヤクルトが優勝した時にも、マスコミに登場した野村監督に対し、必ずと言っていいほど「若い選手との付き合い方」について質問されていた。広岡達朗の管理野球ブーム以降、スポーツをビジネスのお手本にしようという風潮が強いが、私生活まで管理するようなやり方はどうかと思う。

 一方の、仰木監督は、自由放任を旨としながらも、成績にはきわめてシビアだという。いい結果が出れば何をしていても構わないというが、私生活も含め自己管理のできない選手にいい仕事ができるはずもない。結果からみれば、管理野球と同じかそれ以上の効果が得られているという。


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▽『デリバティブ規制で金融はこう変わる』――金融後進国ニッポンの「変わらなきゃ!」



安達智彦『デリバティブ規制で金融はこう変わる』(日本実業出版社)



 本書を書店で見かけたとき、表紙に描かれた「規制」の文字が小さく緑で囲まれていたこともあって、タイトルを『デリバティブで金融はこう変わる』と勘違いしてしまった。

 どちらともとれるような表紙のデザインは、ある意味でデリバティブと日本の金融界を取り巻く状況をうまく表現しているといえるだろう。内外の金融情勢を考えた時、デリバティブによって金融は変わるだろうし、その規制によっても変わらざるを得なくなる。特に、金融後進国ニッポンにとっては、厳しい変化を求められる時期を迎えている。

 日本にとって最大の変化は、デリバティブによって金融自由化の速度が加速される点にある。デリバティブによって資金の長期、短期や金利の変動、固定といった区別が取り払われたが、これは日本の金融界特有の業態という概念を一掃させ、予定よりも早く自由化の波をもたらした。

 一方、97年度にも導入されるBIS二次規制によって、邦銀のリスク管理能力も厳しく問われることになる。この二次規制を最高の条件でクリアーできる銀行は、日本にはわずか三~四行しかない。規制によってつけられる資本金格差は、収益力の格差をもたらし、必然的に邦銀の再編も加速させることになる。

 こうした背景をデリバティブの第一人者が易しく解説する。


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